スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2017の投稿を表示しています

桂離宮

桂離宮は、江戸時代初期に八条宮家が別邸として京都・桂地区(京都市西京区)に創設した邸宅、庭園です。当時は「桂御別業」(かつらのおなりどころ)と呼称されていましたが、八条宮家の断絶後、明治時代に「離宮」として皇室に引き継がれ、現在も皇室財産の一つとして宮内庁が管理しています。一部制限(未成年、乳幼児連れ禁止など)はあるものの、事前に宮内庁京都事務所申し込めば、無料で見学することが出来ます。 八条宮家 桂離宮を創設した八条宮家は、第106代 正親町天皇の孫・智仁親王(1579年~1629年)を初代当主として創設された宮家です。智仁親王は、一時は豊臣秀吉の猶子として将来の関白職が約束されていましたが、秀吉に実子が生まれたことで状況が一変しました。かわりに秀吉は、智仁親王を天皇の了承を得て新設した八条宮家の当主とし、かつ現在桂離宮のある場所を中心に知行地を与えました。 また、江戸時代に入ると、兄である第107代 後陽成天皇が跡継ぎ(皇嗣)として智仁親王を推す考えを示しましたが、徳川家康は秀吉との関係を理由に拒否しています。この結果、皇位は第108代 後水尾天皇(智仁親王の甥)に継承されました。 このように、智仁親王は表舞台に立つチャンスをことごとく潰されたわけですが、一方で学問や造園の才能に恵まれていました。その才能が結実したのが、自身の知行地に建設した別邸「桂御別業」でした。 宮様バトンリレー 智仁親王が1629年に亡くなった後、後継ぎである智忠親王が若年であり、また徳川幕府の政策により朝廷・公家の生活は圧迫され、八条宮家も例外なく経済力に欠く状態であったため、広大な別邸も暫くは荒廃の一途を辿る運命にありました。 その後、智忠親王が加賀藩前田家から嫁を迎え、経済的な後ろ盾を得たこともあり、父譲りの美的感覚をいかんなく発揮し、別邸の再整備・拡充に取り組みます。今日、我々が目にする「桂離宮」は、智仁・智忠という八条宮家の父子がバトンをつないで完成させたものです。 八条宮家はその後、数回の改称を経て、江戸時代後期には「桂宮」として存続していましたが、1881年(明治14年)に最後の当主・淑子内親王が跡継ぎを設けずに亡くなったため、断絶しました。主を失った別邸は「桂離宮」として皇室に引き継がれ、今日に至ります。 なお、混同されやすいのですが、

祝いと呪い

日本の信仰における考え方の一つに、「祝い」という考え方があります。「祝う」ことが最も顕著に現れるのが「祝詞(のりと)」です。その名の通り「祝う言葉」であり、種類によって差はあるものの、概ね神様や天皇の安寧、人々の健勝を祝う言葉が繰り返されます。 また、我々の日常生活でも、例えば結婚や出産、進学等の節目において、「おめでとう」等の言葉を相手に伝えます。これも、相手の健勝を願って「祝う」行為です。 一方、「祝い」とは対極的な考え方が「呪い」です。「呪い」については、野村萬斎さん主演の映画『陰陽師』で詳しく描かれています。この映画では、真田広之さん扮する敵が呪いを放ち、野村さんが演じる稀代の陰陽師・安倍晴明がそれを解除するシーンが度々登場します。これらの呪術バトルは見所の一つとして、CGによる派手な表現が施されていますが、呪う者が「何(誰)を呪うか」を具体的な言葉で何度も繰り返し述べていく演出が特徴的でもあります。 「祝い」も「呪い」も、表裏一体の存在で、根本的には同じ事象であるとされています。祝福か怨恨かという感情に違いがあるだけで、そのどちらも言葉の反復によって自分や相手の心に影響を及ぼす行為であるといえます。 私見ですが、ビジネスの世界での「コーチング」や芸能ゴシップなどでよく出てくる「洗脳」も、現代風に形を変えた「祝い」と「呪い」であると感じます。 名前の呪い この祝いと呪いの特徴が現れるのが、親からもらう名前です。 名前は、その個人が生きている間にずっと反復され続けますから、一番身近な言葉といえます。 良い名前であれば、何度も反復されるうちに名前自体が祝詞となり、恒久的に祝われるという幸せな人生を歩むことができるでしょう。でも、その反対は、想像もつかないほど苦痛かもしれません。 知り合いに、有名なテレビゲームのヒロインと同姓同名の女性がいました。そのゲームがヒットするにつれてクラスメートにからかわれ、耐えられなくなったその方は半ば引きこもりのような状態になっていました。現在は踏ん切りをつけ、結婚されて元気に過ごされていますが、架空人物の影に苛まれる日々はつらかっただろうと思います。 また、キラキラネーム、DQNネームと呼ばれる難読な名前を与えられた子供たちが、他人から必ず言い間違えられ、かつ何度も読み方を確認されるために自信

Mishima Taisha Shrine(三嶋大社), Shizuoka

Mishima Taisha or Mishima Grand Shrine is located in Mishima city, Shizuoka. It worships "Mishima Daimyo-Jin (三嶋大明神)" which is comprised of two different deities; Oo-Yamatsumi(大山積: the great mountain deity)and Kotoshiro-nushi(事代主: the divine master of things). It is unclear exactly when the shrine was established, but at least it is thought to be more than 1,200 years old since the shrine's name is enlisted in the official list of shrines published by the imperial court about  1,200 years ago. Mishima=Izu islands The name "Mishima" means Izu islands(伊豆諸島)spreading out from Izu peninsula (in the east of Shizuoka Pref.) to the Philippine ocean. Most of the islands are protuberant submarine volcanoes and some of them are still active. In the ancient time, Mishima Taisha was considered a place of faith against the volcanic activities; eruption may harm peoples' lives, so they came to worship something divine to secure their safety and stop its eruption.

櫻井神社・櫻井大神宮

櫻井神社/大神宮は福岡県糸島市にあり、同じ境内に櫻井神社、櫻井大神宮という二つの神社が併設されています。両神社とも、福岡藩第2代 黒田忠之公の発願によって江戸時代に創建されており、日本の神社の中では比較的新しい部類に入ります。 創建の由来は、1610年(慶長15年)の6月1日未明に発生した大雷雨に遡ります。櫻井神社の伝記によると、嵐の最中、雷の一閃により岩戸洞窟の扉が開いて神霊が現れ、その後地域住民に次々と霊験あらたかな事象が発現しました。噂を聞きつけた藩主・忠之公は、二度に亘り使いを出して確認したところ、二度ともご神意に触れたため信仰心を深め、この岩戸洞窟の地に壮大な社を建てることを決意した、とあります。 忠之公はまず、岩戸洞窟より西南にある高台に神明造の神殿を2つ作り、各々に伊勢の内宮(アマテラス)・外宮(トヨウケヒメ)の分霊を祀る櫻井大神宮を1625年(寛永2年)に創始しました。その際、伊勢の神宮と同じく20年ごとの遷宮を実施することとしていましたが、1866年(慶応2年)の第13回を最後に、現在は途絶しています。 その7年後、1632年(寛永9年)に岩戸洞窟の神霊を祀る櫻井神社が建設されました。経年による傷みはあるものの、当時の社殿がいまも現役として使用されています。 「けがれ」を祀る神社 櫻井神社のご祭神は、神直日神(かむなおびのかみ:カムナオビ)、大直日神(おおなおびのかみ:オオナオビ)、八十禍津日神(やそまがつひのかみ:マガツヒ)の3柱です。神話では、亡くなった妻に会うために黄泉の国を訪れたイザナギが、黄泉から帰還後に川原で体を洗い清めていたとき、イザナギの体から離れた「黄泉の穢れ(けがれ)」を神格化したのがマガツヒ、その穢れを清める役目として発現したのがカムナオビ/オオナオビの2柱であったとされています。なお、八十禍津日の「八十」は数字ではなく、「数が多い」という意味です。 穢れというのは、物理的な汚れよりも「気枯れ(けがれ)」、つまり気分が悪くなったり、落ち込んでしまう状態を指します。神道では、我々の生活で起き得る様々な悪事や苦悩は、こうした気枯れによって引き起こされると信じられています。これを解消するために、人によっては神社でお払いを受けたり、祝詞を唱えたりします。 櫻井神社では、この「穢れ」を神様として祀っているので

富士信仰

日本の山岳信仰は、信仰の対象である山の種類に応じて、ざっくり以下の2種類に分けられます。 ①浅間(せんげん)型 富士山、あるいは北越地方の白山や立山など、高く険しい山岳を神体山とする信仰。 ②神奈備(かんなび)型 大神神社(奈良県桜井市)の三輪山のように、平野部の小山や丘を対象とする信仰。 以上は山の種類で区別したものですが、これに山の役割や祭祀方法での分類を加えると、非常に多彩な信仰形態に枝分かれしていきます。山、そして人の数だけ、信仰があるのでしょう。 今回は、浅間型の山岳信仰の中でもっとも有名である、富士山を神格化した「富士信仰」、その中でもよく耳にする「浅間神社」での信仰(浅間信仰)について触れたいと思います。 浅間神社 浅間(せんげん)とは、富士山の古名です。もともとは、過去の山荘立てこもり事件で有名な長野県の浅間山(あさまやま)と同様、「火山」を示す名詞であり、やがて東海以東では富士山のことを特定するようになったと考えられます。 浅間神社は、東海を中心に点在する約1,300社の同名神社を指し、静岡県富士宮市にある「富士山本宮 浅間大社」がその総本宮とされています。主祭神は、富士山の山頂に鎮まるコノハナサクヤヒメ(浅間大明神)であり、多くの場合、縁のある神様(夫・ニニギノミコト、父・オオヤマツミ等)が配祀されています。 また、浅間大社には本殿がありますが、神社によっては本殿を持たず、富士山自体を拝み奉る祭祀を行うところもあります。 なお、富士山の八号目以上は浅間大社の社有地であり、山頂には奥宮があります。また、火口周辺は「大内院」とよばれ、最も神聖な場所として一切の立ち入りが禁止されています。(そもそも、富士山は現役の活火山ですので、火口に近づくこと自体が危険です。) コノハナサクヤヒメ 漢字で「木花咲耶姫」(日本書紀)と表わし、見目麗しい桜(木の花)の化身とされています。父である山神・オオヤマツミが、数ある山岳の中から富士山を与えたという伝説から、富士山に鎮まる神として祭られるようになりました。 神話では、皇統に寿命があることの由来として、コノハナサクヤヒメが登場します。 その昔、天孫・ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメに求婚した際、父・オオヤマツミは姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせました。しかし、醜女であ

読書感想文(三田誠広著「道鏡」「桓武天皇」「空海」)

三田誠広氏の歴史小説「道鏡」、「桓武天皇」、「空海」の 3 冊を続けて読みました。 『道鏡』 道鏡は、称徳女帝の寵愛を利用して権力を握ったとされる僧侶です。彼を主人公とした小説『道鏡』では、無位無冠である皇族の「私生児」として鬱屈とした人生を送っていた道鏡が、出家後に看護禅師として女帝・称徳天皇の傍にはべり、その寵愛を受けて立身出世を狙う。。。というストーリーです。 天皇の地位にありながら不遇な身の上であった称徳天皇が、その寂しさを道鏡にぶつけ、愛欲にはまり込み、最後には道鏡に皇位を譲ろうとまでする「幸薄女の暴走」は艶かしくかつテンポよく、そしてその企みが失敗に終わり、称徳天皇の死によって道鏡の権勢が終わるところは哀愁漂わせる表現で描かれ、最後は夢破れた道鏡が左遷されるところで、物語が終わります。 『桓武天皇』 桓武天皇の人生を、①皇位からは程遠い末端皇族「山部王」として、自由気ままにすごしていた少年期、②道鏡追放後、 数奇な運命を経て「桓武天皇」に即位する青年期、③ 力をつけた東大寺勢力、 実弟・早良親王との政治的対立と別れに苦悩する壮年期、の3段階に分けて描いています。 武力に頼らない「聖王」を目指しながらも、弟への思いや家臣の思惑に翻弄され る天皇。うまくいかない現実に対して苛立ったり 、初恋の幼馴染との失恋を引きずったりと、桓武天皇が人間臭く描かれています。 『空海』 死期を悟った晩年の空海が、弟子たちに自らの半生を語る形式で物語が進みます。空海の回想を通して、讃岐の片田舎で育った少年「佐伯真魚(まお)」が、様々な人と出来事を通して仏教と出会い、唐へ留学して修行勉学に努め、日本を代表する大僧正になっていく姿がテンポよく描かれています。 一方で、少年期に悲恋を経験し、その思いを引きずりながら仏教へと帰依していく姿や、ライバルの天台宗座主・最澄への思いなど、後世に語り継がれる偉大な空海像とは違った「人間・空海」を見ることが出来ます。 3 冊とも独立した書籍で、いわゆるシリーズ物ではありません。ただ、同じ作者が同じ時代を別の視点で描いているので、ある物語の主人公が別の物語で脇役として登場することは面白い。例えば、空海と桓武天皇の邂逅。非公式な「私度僧」である若き空海は、真言密教の本拠地

三嶋大社(静岡県三島市)

三嶋大社は、静岡県三島市にある神社で、山の神であるオオヤマツミと「えびすさん」の愛称で親しまれるコトシロヌシを総称した「三嶋大明神」を主祭神としています。創建の時期は不明ですが、延喜式内社(平安時代の神社リスト「延喜式神名帳」に名前のある神社のこと)であることから、少なくとも1,200年の歴史を有しています。 三嶋=御島=伊豆諸島 「ミシマ」という名前は、「御島」、つまり伊豆諸島を指しているとされています。三宅島をはじめ、伊豆諸島では常に噴火の危険性を孕んでおり、古代の人々にとって三嶋大社は、これらの噴火を鎮めるための信仰の場とされていました。 延喜式神名帳は、当時日本国内にあった神社を国別(例:肥前国、肥後国、山城国...)で区分けしてリストアップしたものですが、そのうち「伊豆国」のリストには、三嶋大社(と比定される神社)を含む88社の神社の名が列挙されています。ちなみに、伊勢の神宮を有する伊勢国や出雲大社の出雲国の神社数が各々200近くであり、また朝廷に程近い京都・山城国などが100社くらいであったことを考えると、伊豆国はこれらに次ぐ数の神社を抱えていたことになります。如何に当時の人々がミシマの噴火を「神の業」として畏れ、鎮めようとしていたのかが神社の数によって表わされているかのようです。   三嶋大明神 三嶋=ミシマ=伊豆諸島という関連に基づくと、主祭神の「三嶋大明神」は「伊豆諸島の大明神」と言い換えることが出来ます。 上述の通り、「三嶋大明神」は異なる神2柱を総称したものですが、元来は伊豆諸島自体の神性を示す土着の神だったと考えられています。 その後、後世になって「噴火」を鎮める信仰に関連して「山の神・オオヤマツミ」と見られるようになり、さらに江戸時代には「コトシロヌシ」説が有力となる等、創建以来の歴史において、三嶋大明神の正体は二転三転しています。 結局は、有力であった2つの神が総称される現在の形におさまっていますが、謎の主祭神・三嶋大明神を巡っては現在も諸説が並立しており、明確に特定されているわけではないようです。 (なお、同じ「オオヤマツミ」を祀る愛媛県・大 三島 の 大山祇神社とのつながりを示す説もあります。)   三嶋大社と源頼朝 三嶋大社は、源氏とのつながりが深いことでも有名です。 平治の乱

Daikaku-Ji temple (大覚寺), Kyoto

Daikaku-Ji temple is a Buddhism temple (Shin-gon sect.:真言宗)in Saga area, Kyoto, having five wisdom kings of Buddhism (Acala, Kundali, Trilokavijaya, Vajrayaksa, Yamantaka) for religious worship at its main alter. Formerly, it was built as an imperial villa by the 52nd emperor Saga(嵯峨天皇 AD 786-842)about 1,200 years ago, and it was renovated as Daikaku-ji temple after the emperor died. In addition, some emperors, retired emperors and/or imperial princes became the temple's chief monk (Monzeki; 門跡) in its history. Therefore, unlike other Buddhism temples, the architectures were designed like the imperial court. To the contrary to the elegant court culture, this temple has witnessed many political battles over the imperial throne. Prince Tsunesada (恒貞親王 AD 825-884)-the first chief monk of Daikaku-ji temple Prince Tsunesada was the second son of the 53rd emperor Jun-na(淳和天皇)who succeeded to his elder brother's throne-the emperor Saga. Since Jun-na's first son had passe

大覚寺(京都市右京区)

大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある真言宗の寺院で、不動明王を含む「五大明王」を本尊としています。もともとは、平安時代初期の第52代 嵯峨天皇が建設した離宮でしたが、その後の紆余曲折を経て寺院となった経緯から、正式には「旧嵯峨御所 大本山 大覚寺」と称しています。 旧御所であり、また明治時代まで度々皇族が住職(門跡)を務めていたこともあって、その雰囲気は京都御所に似ており、往年の宮廷文化を至る所で感じ取ることが出来ます。また、いけばな発祥の地としても知られ、現在も「いけばな嵯峨御流」の家元として活動している寺院でもあります。 しかし、嵯峨天皇の時代から、大覚寺の誕生、そして南北朝時代までの流れをたどると、そうした雅な空気とは裏腹に、皇位を巡る政争の歴史が浮かび上がってきます。激しい歴史と宮廷文化ー大覚寺は、そうしたコントラストの上に存在する史跡でもあるのです。 大覚寺の初祖、恒貞親王 恒貞親王は、嵯峨天皇のあとを継いだ第53代 淳和天皇の次男です。長男が若年で死去していたので、皇太子候補として目されていましたが、息子が政争の道具となる事を危惧した淳和天皇は、代わりに嵯峨上皇(上皇=引退した天皇)の息子を皇太子としました。ところが、この皇太子が天皇に即位すると、強引に恒貞親王が次の皇太子として担ぎ出されてしまいます。 嵯峨上皇の死去後、父・淳和天皇が恐れていた通り、恒貞親王は政変に巻き込まれ追放されます。追放後、親王は出家して「法親王」となり、名を「恒寂」に改めました。 一方、残された嵯峨離宮については、同じく出家した母・正子内親王が寺院に改装し、恒寂法親王を初代住職に立てました。こうして、今日まで続く大覚寺が誕生しました。 大覚寺の再興 その後、大覚寺は衰退の一途を辿り、歴史の中に埋もれた存在となっていきます。そして、初代・恒寂法親王から経ること約500年、1308年(鎌倉時代)に、出家して「法皇」となった第91代 後宇多天皇が伽藍を整備し、自らの政治を取り仕切る「嵯峨御所」として再興したことで、大覚寺は再び歴史の表舞台にたつこととなります。 南北朝の対立 500年経っても、朝廷の中は相変わらずでした。当時は、第89代 後深草天皇(兄)と第90代 亀山天皇(弟)による兄弟の対立を発端として、後深草グループ(持明院統)と亀

Shirayama Hime Jinja Shrine(白山比咩神社)

  Shirayama Hime Jinja Shrine(白山比咩神社)is a Japanese shinto shrine located in Hakusan-City, Ishikawa, Japan. It is a headquarter of the whole Shirayama or Hakusan shines under the faith that Mr. Hakusan is a place of divinity. (The same for the word "白山" but two ways of pronunciation; " Hakusan " in Chinese reading and " Shirayama " in Japanese reading. It's chosen based on origins of each shrine.) According to the shrine's chronicle, it's been more than 2,100 years old, and its name appears in an official shrine list ( Engi-shi Jimmei-cho :延喜式神名帳)edited by the imperial court in 927 AD (so, it has at least 1,090-year history for its service.) The shrine's main deity is Kikuri-hime (菊理媛), a female divinity who is said to have strength to conclude things or arbitrate disputes, based on a myth that the deity arbitrated a quarrel between Izanagi and Izanami, the divine couple who gave birth to lands of Japan. (For this divine couple,

白山比咩神社(石川県白山市)

石川県白山市にある白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、霊峰・白山(はくさん)を御神体とする白山信仰の中心地であり、全国に2,716社ある白山神社の総本宮とされています。創建は2,100年以上前とされ、延喜式神名帳(平安時代の神社リスト)にその名が記載されています。一般的には、「加賀国一ノ宮」「白山本宮」などの名称で知られ、地元の人々からは親しみをこめて「白山さん」と呼ばれています。 主祭神は、和合・調停の神徳を持つキクリヒメ(白山比咩大神)で、平野部の「本宮」、白山頂点の御前峰(ごぜんがみね)にある「奥宮」の2つの社殿で祀られています。また、下述する神話に基づき、国土創造の夫婦神(イザナギ、イザナミ)を配祀しています。 山岳信仰 古代の人々にとって、山は狩猟や植物の栽培・採取の場、或いは水源として恵みをもたらす一方、噴火等天災によって生命を脅かす存在でもありました。人々は、このような性格を持つ山々に対して「恩顧(感謝)」と「畏怖」の念を抱き、神聖視するようになります。こうした信仰形態を、神道では「山岳信仰」と呼びます。 当初は、単純に山や丘を崇拝する形態でしたが、次第に富士山、三輪山といった特定の山(神体山)に対する信仰へと変化していきます。そして、大和朝廷が台頭し、記紀の編纂によって神話が確立したことで、これらの神体山が「オオヤマツミ(大山積)」、「オオヤマクイ(大山咋)」といった、一種の人格を持つ神が鎮座する場所とされていきます。 また、仏教が伝来した奈良時代以降、仏教の山中修行と神道の山岳信仰がミックスされた「修験道」という新しい信仰が生まれ、多くの修験者(山伏)たちが修行・信仰のため、従来は立入禁止であった神体山の中へ足を踏み入れるようになっていきます。 白山と神仏習合 白山は、石川、福井、富山、岐阜の4県にまたがる、標高2,702mの山です。ほぼ一年を通じて雪をいただくその姿は、北越各地域、また日本海の洋上からものぞむことが出来ます。古くより、平野部の人には農業に必要な水の神、海で働く人には航海中の自船や漁場の位置を示す道しるべの神として崇拝され、同時に亡くなった人の御霊が鎮まる聖域とも信じられていました。 白山 (※) ※Retrieved on 2017/8/21 from Wikipedia;  At

Rokko Shidare Observatory

Rokko Shidare Observatory is located on the top of Mt. Rokko, a massif ranging across major cities in Hanshin District (Kobe, Nishinomiya, Ashiya and Takaraduka) in Japan. Upon deterioration of the former observatory which had been in use since 1957, this dorm was renovated in 2010 by Mr. Hiroshi Sambuichi, an architect having a theme to put buildings in nature as parts of the planet. The observatory was designed like a giant tree with its trunk having branches and leaves. A pillar (trunk)  is at its center and numerous hexagonal frames (Branches and leaves) are spreading out of the pillar like leaf veins;weeping form ("shidare" in Japanese). All of the items are made of cypress, so its aroma is filled inside. (like forest bathing) There is a slope around the pillar so that visitors enjoy 360°panorama view i.e seasonal views of the mountain, night view of Kobe and its harbor, all of which is decorated with lights. (a million-dollar night view ??) On top of th

六甲枝垂れ

六甲山の山頂付近に、「六甲枝垂れ(しだれ)」という一風変わったドームがあります。「幹を枝葉が囲む大樹」をイメージしているというこの建物は、老朽化したかつての「十国展望台」(1957年開業)のあとを継ぎ、著名な設計者・三分一 博氏による監修の下、2010年にリニューアルされた展望台です。 中心にある煙突状の太い柱(幹)から枝・葉に見立てた六角形の多数のフレームが葉脈のように広がり、360度取り囲むようになっています。また、幹の周りにあるスロープによって、全方位的に景色を展望できるようになっているほか、全てヒノキで出来ているため、内部は樹木のやさしい香りに満ちています。 六甲山 「六甲山」とは単一の山ではなく、阪神地区の主要都市(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市)をまたいで存在する大小の山々(六甲山系)の総称です。最高峰(神戸市灘区)の標高は931mで、山上付近には六甲ガーデンテラスなどの商業施設があり、ロープウェイやバスなど交通網も充実しています。 また、武庫川・加古川など付近を流れる河川の水源であり、伏流水(地下水)も含めて山域全体の水量は豊富なことから、「六甲のおいしい水」などの飲用水や阪神地区における酒造産業の礎となっています。 さらに、地理的に市街地に近いものの、その気候は青森県に似て、夏(気温:23℃)は涼しく冬(-3℃)はかなり寒くなります。山麓の水は冬季に氷となり、空調の無かった時代には夏の暑さをしのぐものとして、神戸で売られていたようです。 六甲枝垂れと春夏秋冬 設計者の三分一氏は、「自然と建築物の共存」をテーマとした建築物で有名な建築家で、六甲枝垂れもこうした思想をベースに設計されています。具体的には、大樹を模したそのデザインや六甲山の季節の移ろいを見て楽しめる展望スペースだけでなく、太陽光を吸収して暖を取る「陽室」、冬季の氷と風の力で涼感を得る「風室」など、季節ごとに空調無しで快適に過ごせる仕掛けを盛り込んでいます。 イルミネーション 夜間には、ヒノキの枝葉フレームに地面からLEDをあて、ドーム全体を幻想的な光の空間に変化させるイルミネーションを実施しています。今年は、四季それぞれにテーマを設け、春にはピンク等花の色、夏は涼やかな青や緑、秋は紅葉の赤、冬は白を基調とした六甲颪や雪のイメージと、季節ごとにカラ

Obon festival-Traditional period to pray for ancestors

Every year in mid August, Japan has traditional period called Obon ., in which families living separately get together at home and often visit the family's tomb to pray for ancestors. In most cases, people have Buddhist monks/priests to chant a sutra for the family's ancestors in front of their at-home Buddhist alter and/or tombs outside during the Obon period. Therefore, those practices have been seen as Buddhist events among people in Japan. It is half yes, but half no. It's rather precise to say that the practices are done in Buddhist way, but its core comes from Shintoism-Japan's indigenous religion (to which I often refer in articles of "shrine hunting" in this blog). The point is "thank you, my ancestors!". Buddhism way of Obon In Buddhist dogma, Obon is formally called "ullambana" (Sanskrit: its meaning is "being hung upside down") which can be originated from a story of a monk who try to save his mother suffe

お盆に何をするのか。

今年も、お盆の季節がやって参りました。 お盆といえば、何を思い浮かべますか。帰省、親族での集まり、お墓参り、或いは帰省ラッシュや旅行会社シーズン料金などでしょうか。 お盆休みがある方もいれば、休み無く働いている方もいると思います。 さて、一般的には先祖供養やお墓参りのイメージから、お盆が仏教行事であると広く理解されています。でも、実際は「神道を原料として仏教というスパイスで味付けしたイベント」というのが正解です。 そこで今回は、毎年当たり前にやってきて、何気なく過ごすこの「お盆」について考えてみたいと思います。 仏教的観点:先祖供養 仏教では、お盆のことを正式には 「 盂蘭盆会 」(うらぼんえ)と呼びます。その昔、釈迦の弟子が、地獄で飢餓に苦しむ母を救おうと、釈迦の教えに従い、旧暦7月15日(現在の8月15日頃)に修行僧たちへ食事を振舞った功徳により、無事に母を往生させた説話が由来です。(地獄で逆さ吊りにされている母を救う、という説もあります。) その後、この馳走を毎年同じ時期に継続して功徳を積むことで、先祖は苦しみから解放され、現世の人々が幸せになると釈迦が教えたことが、お盆の起源となっています。 神道的観点:祖霊崇拝 一方、神道にも祖先の御霊(祖霊)を祭る「祖霊崇拝」という信仰があります。 祖霊とは、現世の子孫と家を祝福し、厄災や不幸から守ってくださる「神様」です。皇室の祖霊(皇祖)を祀る伊勢の神宮や、藤原氏の祖霊(氏神)を祀る春日大社などの例や新年の初詣(本来は、祖霊を家にお招きして、新年の平穏無事を授けて頂くことが目的)をみても、祖霊崇拝は神社信仰の原型のひとつとも言えます。 日本では、この信仰に基づいて、毎年2回、夏と冬に祖霊を祀る慣習がありました。今でも神式を通すところもありますが、一般的には仏教の伝来以降、盂蘭盆会の考え方が浸透するに従い、「夏=お盆、冬=初詣(新年祭)」という現在の形態に定着していきます。 先祖供養≠祖霊崇拝 先祖供養と祖霊崇拝は、「似て非なるもの」です。 仏教では、生きている間の善行や修行の有無によって、死後、そして次に転生する際の身分が決まるという考え方(因果応報/輪廻転生)があります。先祖供養はこの考え方をベースに、生前の悪行によって苦しみに苛まれる先祖を救い、

Rosslyn Chapel-Scotland

Rosslyn Capel or Collegiate Chapel of St Matthew is a catholic collegiate church located at the village of Rosslyn, Scotland. It was founded in 1446 AD by William Sinclair, 1st Earl of Caithness, and has been maintained by its decedents until now. This chapel appears in "The Da Vinci Code" as an important venue in its climax. In addition, there was a movie shooting at this chapel for the book's movie adaptation stared by Tom Hanks as Robert Langdon in 2016. Knights Templer and the Holy Grail The book's author, Dan Brown, focused on a legend linking this chapel with Knights Templer for plotting the story's core; the Holy Grail. Knights Templer is a Catholic military order comprised mainly of cavalry monks. It was established in 1119 AD, and then recognized formally by the papal authorization in 1139 AD. The order was headquartered in a place which was believed to be ruins of the Temple of Solomon in Jerusalem-the Holy Land. Its purpose was to protect c

ロスリン礼拝堂

ロスリン礼拝堂は、スコットランドの首都・エジンバラ近郊にあるカトリック系の礼拝堂です。1446年にウィリアム=セント=クレア候によって設立され、現在もその子孫によって管理されています。 2004年の世界的ベストセラー「ダヴィンチ・コード」で重要な舞台として描かれ、2006年の映画版でも撮影に使用されました。 テンプル騎士団と聖杯 「ダヴィンチ・コード」の原作者ダン・ブラウン氏は、そのストーリーを考えるにあたり、この礼拝堂の伝説に注目しました。それは、テンプル騎士団との関係性です。 テンプル騎士団は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会(修道士による武装集団)です。当時、イスラム勢力との対立が激化し、キリスト教会も十字軍などの戦闘集団を以って、重要拠点を防衛していました。こうした時代の中で、テンプル騎士団は聖地エルサレムに本拠を構えて成立し、主にエルサレムへの巡礼者の保護を担いました。 その後、エルサレム防衛の失敗やフランス王の策略などもあってローマ教皇から「異端」とみなされて弾圧され、テンプル騎士団は壊滅しました。ところが、ローマ教会から距離を置いていたスコットランドでは、弾圧は起きませんでした。 こうして難を逃れたテンプル騎士団のひとりが設立したのが、ロスリン礼拝堂です。 古くより、エルサレムとの深い関係から、テンプル騎士団がキリスト教の秘宝「聖杯」を隠し持っているとの噂は絶えませんでした。ダン・ブラウン氏は、迫害を免れ現在まで血筋の続く元・騎士団メンバーの礼拝堂にそのヒントがあると考え、足しげくロスリン礼拝堂に通いながら「ダヴィンチ・コード」の執筆を始めたといいます。物語の中では、「聖杯」の正体が判明するクライマックスで、この礼拝堂が登場します。 「変な」装飾たち ロスリン礼拝堂の特徴は、礼拝堂の「装飾」にも表れています。外装は一般的なのですが、内部の装飾はまるで訪問者を試すかのように、不思議なデザインのものが多いのです。 特に有名なのが、「グリーン・マン」(ケルト神話に登場する植物の精霊)です。葉や茎、幹など植物の部分を使用して人顔を表すことが特徴の装飾で、欧州各地の史跡で見られます。中でも、ロスリン礼拝堂のグリーンマンは表情が特徴的で、礼拝堂が販売するお土産グッズの中に、グリーンマンのぬいぐるみがあるくらいです。

Munakata Grand shrine (宗像大社)

Munakata Taisha or Munakata Grand Shrine(宗像大社)is located in Munakata city, Fukuoka. It is comprised of three shrines in different places; Okitsu-miya shrine in Okinoshima island, 50km off in the north from mainland of Kyushu, Nakatsu-miya shrine in Oshima island, which is connected by ferry with mainland, and Hetsu-miya shrine in mainland Kyushu. In 2017, Okinoshima island and the shrine including related facilities are enlisted as UNESCO's world heritage. Divine three sisters of Munakata Three female deities (Munakata divine sisters:宗像三女神) are enshrined in each of the three shrine; the first-eldest "Tagori-hime" in Okitsu-miya, the second-eldest "Tagitsu-hime" in Nakatsu-miya and the third-and-youngest "Ichikishima-hime" in Hetsu-miya. In ancient articles including Kojiki (古事記 "Ancient matter"as the first chronicle supervised by the imperial court) and Nihon-shoki(日本書紀 "The first nationally authorized chronicle of Japan), the

宗像大社と世界遺産

前回、 宗像大社のあらまし についてまとめました。 北部九州に住む人の多くは、宗像大社の交通安全祈願祭を受けた経験があると思います。 私も、免許取得後の初ドライブ先は宗像大社でした。当時はバックでの駐車も進路変更もうまくできず、助手席に座っていた父親の叱咤激励を受けながら何とかたどり着いた記憶があります(涙)。 さて、宗像大社と沖ノ島、ならびに関連遺跡群は今年、ユネスコの世界文化遺産に認定されました。日本では、22例目の世界遺産です。(文化遺産18例、自然遺産4例) 各種報道の通り、認定されるまでに紆余曲折を経ました。そこで、ユネスコが公開している審査書類を紐解き、その経緯を追いたいと思います。 ユネスコ世界遺産 はじめに、「ユネスコ世界遺産」について整理します。観光産業の呼び水のようなイメージをもたれがちですが、本来の目的は、人類にとって後世に残すべき価値を「保全」することにあります。 従って、認定後もどのように史跡を保全しているのかも厳しくチェックされ、不十分であれば、登録抹消となる可能性もあります。 認定に際して、ユネスコの各加盟国が推薦する候補について専門機関が調査・検討した結果に基づき、毎年開催される世界遺産会議にて協議にかけられます。 この中で、10か条にわたる「世界遺産登録基準」のいずれかに適していると判断されれば、晴れて世界遺産として認定されます。 正式名称:『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群 今回は、沖ノ島(鳥居の役目を果たす周辺岩礁を含む)と沖津宮、大島の中津宮、御嶽山、沖津宮遥拝所、九州本土の辺津宮(宗像市)や、地方豪族・宗像氏の歴代首長を埋葬している新原・奴山古墳(福津市)という複数の史跡を総合した形で、世界遺産に登録されました。 しかし、当初ユネスコ側は、沖ノ島のみ世界遺産にふさわしく、それ以外の史跡はあくまで日本でのみ価値が認められるため、世界遺産には含めるべきではないと判断をしていました。 沖ノ島の文化的価値 世界遺産会議の諮問機関ICOMOSは、以下の理由から沖ノ島の文化的価値を認めています。 10万点に及ぶ出土品や島内の祭祀跡により、4~9世紀にかけて沖ノ島が航海安全を祈る宗教的祭祀の場であったことが認められること。 出土品には、中国・朝鮮、中央アジアのものも

Yasaka Jinja shrine (八坂神社)

Yasaka-Jinja Shrine is located in Gion district in Kyoto city, where you can see many Geisha walking in a traditional kimono.  This is a headquarter of the whole "Yasaka" shrines throughout Japan. The shrine officially says in its website that the shrine's religious service can be dated back to 656 AD when a commissionaire called "Iri-shi"(伊利之)from Korea(高麗) established a building for the deity who he had worshiped in a place where is now in a part of Kyoto city. Then, it moved to the current venue. You may ask why Korean. The reason can be found in a myth written in the Nihon-shoki  (the oldest chronicles of Japan). In the story, the shrine's main deity "Susa-no-oh"(素戔嗚尊) was expelled from the heaven governed by his sister Amaterasu (the great ancestor of the Emperor) down to the earth after he did many brutal things (defined as "sins of the heaven deities"/天つ罪). In the story, he came down firstly to a part of Silla(新羅:one of t

祇園祭

京都の夏の風物詩といえば、祇園祭です。 祇園祭は、京都市の東にある八坂神社(祇園社)の例大祭であり、山鉾巡行の雄大な光景は有名です。 しかし、祇園祭の本質は、山鉾が通った後に八坂神社の「ご神体」がおみこしに乗って市中を移動することにあります。山鉾は、メインに添える「華」の役割であることについては、結構知られていないようです。 そんなわけで、祇園祭とは何ぞや、ということに迫りたいと思います。 祇園祭=悪霊退散の会 日本の宗教観のひとつに、「御霊信仰」というものがあります。天変地異や疫病などの厄災は、世や人を恨み非業の死を遂げた方の霊魂や祟り神が引き起こすものだから、これらの御霊を丁重にもてなし、慰めることで災いを防ごうとする信仰です。 祇園祭は、その昔疫病が大流行したとき、当時「祇園社」と呼ばれていた八坂神社が「御霊会」(ごりょうえ)という鎮魂の祭典を催したことが起源とされています。 八坂神社に鎮座する神様は3柱おり、その中心が皇祖アマテラスの末弟「スサノオ」です。記紀の前半部分において、スサノオは非常に猛々しく、粗暴な神様として描かれており、スサノオによる数々の狼藉に失望したアマテラスが、ボイコットして洞窟の中に引きこもる「天岩戸神話」は有名です。 こうした性格から、スサノオは 神仏習合の時代にはインドの荒ぶる神「牛頭天王」と同一視されました。 医学が発展していない当時の京都では、夏は蒸し暑く疫病が発生しやすい上に、賀茂川はよく氾濫し、人々を悩ませ続けていました。自分たちではどうにもできないこれらの現象について、人々は荒神・牛頭天王=「猛々しいスサノオの御霊」に理由を求め、盛大なお祭りによってその御霊を慰撫し災いを避けることが大切だったのだと思います。 山鉾と柱 山鉾は、869年の御霊会で当時日本国内にあった国の数にちなみ、高さ6メートルの鉾を66本立てたことがルーツとされています。御霊会が毎年開催されるようになった970年以降、山鉾の数は増え、装飾も豪華絢爛なものへと発展していきます。15世紀中頃には、全58基の山鉾が現代と同様の姿で巡行していたとの記録もあります。 山鉾 しかし、その後は応仁の乱(1467-1477年)や、江戸時代の2度に亘る大火事、幕末の混乱期にあって山鉾は甚大な被害を受けますが、その都度町

Hokkaido Jingu Shrine(北海道神宮)

Name plate "Hokkaido Jingu" Hokkaido, the northern island in Japan's archipelago, is a now famous place for sightseeing; tasty foods, great nature, and so on. Especially, winter-sports lovers may enjoy skiing/snowboarding in winter. Thinking of its history, Hokkaido used to be a different nation; it was an Ainus land.  However, the Emperor Mutsuhito (The Meiji Emperor) sent commissioners to develop the land. Interestingly, he used sort of a "religious" power to protect  his land or its sovereignty in the island by building a Shinto shrine. The shrine is now called "Hokkaido Jingu"(北海道神宮). Background Shintoism became a nation-controlled religion, of which religious leader or "the living deity" (ie. the Dalai Lama for Buddhism, the Pope for Christianity) was the Emperor after the imperial court regained its political supremacy from Samurai (Tokugawa Shogunate) for the first time in the past 1,000 years.  Shinto Shrines were subsidiz