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桂離宮

桂離宮は、江戸時代初期に八条宮家が別邸として京都・桂地区(京都市西京区)に創設した邸宅、庭園です。当時は「桂御別業」(かつらのおなりどころ)と呼称されていましたが、八条宮家の断絶後、明治時代に「離宮」として皇室に引き継がれ、現在も皇室財産の一つとして宮内庁が管理しています。一部制限(未成年、乳幼児連れ禁止など)はあるものの、事前に宮内庁京都事務所申し込めば、無料で見学することが出来ます。 八条宮家 桂離宮を創設した八条宮家は、第106代 正親町天皇の孫・智仁親王(1579年~1629年)を初代当主として創設された宮家です。智仁親王は、一時は豊臣秀吉の猶子として将来の関白職が約束されていましたが、秀吉に実子が生まれたことで状況が一変しました。かわりに秀吉は、智仁親王を天皇の了承を得て新設した八条宮家の当主とし、かつ現在桂離宮のある場所を中心に知行地を与えました。 また、江戸時代に入ると、兄である第107代 後陽成天皇が跡継ぎ(皇嗣)として智仁親王を推す考えを示しましたが、徳川家康は秀吉との関係を理由に拒否しています。この結果、皇位は第108代 後水尾天皇(智仁親王の甥)に継承されました。 このように、智仁親王は表舞台に立つチャンスをことごとく潰されたわけですが、一方で学問や造園の才能に恵まれていました。その才能が結実したのが、自身の知行地に建設した別邸「桂御別業」でした。 宮様バトンリレー 智仁親王が1629年に亡くなった後、後継ぎである智忠親王が若年であり、また徳川幕府の政策により朝廷・公家の生活は圧迫され、八条宮家も例外なく経済力に欠く状態であったため、広大な別邸も暫くは荒廃の一途を辿る運命にありました。 その後、智忠親王が加賀藩前田家から嫁を迎え、経済的な後ろ盾を得たこともあり、父譲りの美的感覚をいかんなく発揮し、別邸の再整備・拡充に取り組みます。今日、我々が目にする「桂離宮」は、智仁・智忠という八条宮家の父子がバトンをつないで完成させたものです。 八条宮家はその後、数回の改称を経て、江戸時代後期には「桂宮」として存続していましたが、1881年(明治14年)に最後の当主・淑子内親王が跡継ぎを設けずに亡くなったため、断絶しました。主を失った別邸は「桂離宮」として皇室に引き継がれ、今日に至ります。 なお、混同されやすいのですが、

祝いと呪い

日本の信仰における考え方の一つに、「祝い」という考え方があります。「祝う」ことが最も顕著に現れるのが「祝詞(のりと)」です。その名の通り「祝う言葉」であり、種類によって差はあるものの、概ね神様や天皇の安寧、人々の健勝を祝う言葉が繰り返されます。 また、我々の日常生活でも、例えば結婚や出産、進学等の節目において、「おめでとう」等の言葉を相手に伝えます。これも、相手の健勝を願って「祝う」行為です。 一方、「祝い」とは対極的な考え方が「呪い」です。「呪い」については、野村萬斎さん主演の映画『陰陽師』で詳しく描かれています。この映画では、真田広之さん扮する敵が呪いを放ち、野村さんが演じる稀代の陰陽師・安倍晴明がそれを解除するシーンが度々登場します。これらの呪術バトルは見所の一つとして、CGによる派手な表現が施されていますが、呪う者が「何(誰)を呪うか」を具体的な言葉で何度も繰り返し述べていく演出が特徴的でもあります。 「祝い」も「呪い」も、表裏一体の存在で、根本的には同じ事象であるとされています。祝福か怨恨かという感情に違いがあるだけで、そのどちらも言葉の反復によって自分や相手の心に影響を及ぼす行為であるといえます。 私見ですが、ビジネスの世界での「コーチング」や芸能ゴシップなどでよく出てくる「洗脳」も、現代風に形を変えた「祝い」と「呪い」であると感じます。 名前の呪い この祝いと呪いの特徴が現れるのが、親からもらう名前です。 名前は、その個人が生きている間にずっと反復され続けますから、一番身近な言葉といえます。 良い名前であれば、何度も反復されるうちに名前自体が祝詞となり、恒久的に祝われるという幸せな人生を歩むことができるでしょう。でも、その反対は、想像もつかないほど苦痛かもしれません。 知り合いに、有名なテレビゲームのヒロインと同姓同名の女性がいました。そのゲームがヒットするにつれてクラスメートにからかわれ、耐えられなくなったその方は半ば引きこもりのような状態になっていました。現在は踏ん切りをつけ、結婚されて元気に過ごされていますが、架空人物の影に苛まれる日々はつらかっただろうと思います。 また、キラキラネーム、DQNネームと呼ばれる難読な名前を与えられた子供たちが、他人から必ず言い間違えられ、かつ何度も読み方を確認されるために自信