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赤膚焼

赤膚焼(あかはだやき)とは、古代の須恵器作りを起源として発展した焼き物の1種で、奈良県下にて現在も生産が続いています。 戦国時代の茶人・小堀遠州が指定した七窯の一つであり、現在でも茶道具の名門として、茶道をたしなむ方に人気があります。 その名の通り、鉄分を多く含み赤みを帯びた土を使って成型し、その上に釉を塗って焼き固めて色や艶をつけていきます。 特に、白い萩釉を塗った表面に、仏典をもとにした奈良絵を焼き付けているデザインが有名です。 創始 赤膚焼の起源は、埴輪や須恵器などの宗教用土器にさかのぼります。 古来大和国の五条山は、その土質により赤く見えることから、「赤膚山」と通称されていました。 その土が焼き物に適していたため、麓の五条村では焼き物が盛んであったとされています。 当初は古墳に納める埴輪、須恵器といったものがメインでしたが、古墳時代が終わるにつれ、次第に土器や火器づくりを生業とするようになっていきます。 その後、桃山時代に入り茶道文化の大成を受け、茶道具を生産する産業として拡大していきます。 (一説には、豊臣秀吉の弟・秀長が、家来に持たせる褒美としての茶器を作らせたのがきっかけとされています。) 1789年、当時の大和郡山藩主・柳沢保光の保護の下、五条山に「登り窯」が設置され、本格的な窯業へ発展します。 保光は、この窯で作られた焼き物は優れているとして、「赤膚山」の窯号を与えました。これにより、「赤膚焼」という名前が定着します。 以降、藩の御用窯として伝統と技巧が受け継がれていきました。 奈良絵 江戸末期になると、陶工・奥田木白が赤膚焼の装飾に奈良絵を用いはじめ、陶器としての有用性も相まって、「芸術性の高い名陶」として広く知られるようになります。 この奈良絵、もともとは釈迦の生涯を描く「過去現在因果経」の内容を絵にして編集しなおした「絵因果経」がルーツとされています。 これが、次第に東大寺や鹿といった奈良のモチーフを描くスタイル、要するに「奈良絵で奈良の物を奈良で描く」ように発展していきました。 今は、赤膚焼だけでなく、奈良絵単独としても知名度が高まっており、ハンカチなどのお土産品にも使われるようになっています。 現役の6窯 現在、奈良市、大和郡山市にまたがって点在する6つの窯元