茶道というと、 静かでゆったりとした動きを思い浮かべるかもしれません 。 けれども実は、その美しさは「指先」にまで宿っています。 今日は、私が日々の点前で大切にしている 「遅れ指」と「払い指」 という二つの所作について紹介したいと思います。 遅れ指 ― 終わりを丁寧にする 茶筅 を畳の上に置くとき、点前役は親指・人差し指・ 中指の三本で胴を持ちます。 そして、茶筅の胴下が床に触れた瞬間、中指を広げて胴から離し、 薬指と小指とともに3本の指をそっと床に据えて支えにします。 そうすることで、 茶筅が不用意に倒れたり転がったりすることを防ぎます。 この3本の指のことを「遅れ指」といいます。 茶筅は、茶碗の中の茶葉とお湯に直接触れるものです。 もし転がって穂先が床に触れてしまえば、 茶そのものに穢れが移ってしまいます。 お客様が口にされる一碗に穢れが及ばないよう、 茶筅の扱いにも細心の注意が求められます。 だからこそ、倒れないように、 でも強く押さえつけることはしません。 あくまでやわらかく、しかし確実に。 物を置くという動作は、つい気がゆるみやすい瞬間でもあります。 けれども遅れ指は、「終わりこそ丁寧に」 という気持ちを形にした所作です。 きちんと置いたことを、最後の指先で静かに確認する。 そこには道具への敬意と、場への配慮が込められています。 払い指 ― 始まりをやさしく開く 一方、茶入(茶葉の入った小さな壺状の入れ物) を手に取るときの所作が「払い指」です。 最初から指を開いて掴むのではなく、 まず拳を閉じ、茶入の真上に手を持っていきます。 そして、小指から順に指をぱらぱらと開きながら、 やさしく胴に触れていきます。 この動作が、まるで茶入の穢れを払うような仕草であることから、 「払い指」といいます。 この所作は、派祖・ 大口樵翁が嗜んでいた香道の作法を取り入れたものだと伝えられて います。私はこの動きを、 茶入の頭をそっと撫でるような気持ちで行っています。 いきなり掴まない。 まず触れ、そして受け取る。 それは優雅に見せるためだけではありません。 道具を大切に扱い、場の空気を乱さないための、 静かな心づかい...
徳川将軍家の茶道指南役として取り立てられ、武家茶人としては最高峰に上り詰めた片桐石州ですが、意外なことにその子孫は茶の湯を受け継ぐことはありませんでした。 血筋ではなく人柄が受け継ぐもの 石州自身は、特に自分の子息に茶道を継がせようとは考えていなかったようです。それよりも、自分がこれぞと思う人物へと伝授することを重視していたようです。 千利休の血筋が伝える千家(表千家、裏千家、武者小路千家)とは違い、利休の長男・千道安の教えを受けた桑山宗仙を介して侘茶を学んだ自身の経緯に鑑み、石州は血筋ではなく茶の湯を深めていきたい人が嗜めばいい、ということを重視していました。自らの茶を広めよう、茶で名声をなそうということにはあまり興味を持っていなかったようです。 その分、教わりたいという人には惜しみなく自分の極意を伝え、伝えた後はその人の自主性に任せる。そのために、大名家や仏門の人々、自分の家臣から皇族に至るまで、幅広い人物が石州の師事を仰ぎ、学んでいきました。 片桐家自体も、石州から数えて8代目の貞信が新石州流を興しましたが定着していません。また、戦後は様々な変遷を経て、石州流宗家を名乗る2派(片桐家が興した「石州流茶道宗家」と石州の教えを守ってきた家臣家を軸に据えた「茶道石州流本家」)が存在しています。 共存共栄 石州流としては、現在は大まかに、2つの宗家を家元として仰ぐグループ、石州が父親の菩提を弔うために建立した慈光院(奈良県大和郡山市)を中心としたグループ、石州の墓がある京都大徳寺・芳春院を宋元とするグループに分けられます。さらに、仙台藩の流れをくむ清水派や島根・松江藩の松平不味が始めた不味派(不味流)など、独立して継承されていったものもあります。 このように石州流は、石州の名のもとにたくさんの派閥が並立する稀有な流派ではあるのですが、根底にある教えや本質は共有しつつ、様式や価値観を異にするグループ同士が共存共栄、切磋琢磨する形で武家茶道としての伝統を受け継いできています。 こうしてみると、石州の子孫ではなく、石州の茶に触れて感銘を受けた片桐家の家臣や多くの武将、茶人がそれぞれに残していったものが、独立して発展を遂げていったという歴史が、石州流が茶道の世界において独特の存在感を放っている背景なのだと思っています。 茶道の世界において、「石州流に属している」というと、もの...