世の中には、自分を幸せにするための方法は数多く紹介されています。 気分を良くしたり、テンションを上げたり、リラックスしたり。 自分の趣向に合わせて、さまざまなバリエーションの中から選ぶことができます。 でも、同じように大切だけれど気づかれにくいもう一つの要素、 「自分を不幸にしない力」については、あまり語られることがありません。 幸せにする力と、不幸にしない力。 この二つは似ているようで、まったく違う方向を向いています。 多くの場合、人は「幸せになること」を求める。 けれど実際には、自分で自分を不幸にしていることの方が多い。 無理をする。 本心から離れる。 違和感に気づかないふりをする。 幸せになろうとして頑張り、気づかない間に心が摩耗していく。 気が付いた時には、思っている以上に深く自分を傷つけていることも少なくありません。 考えるべきは、 「自分を幸せにする力」よりもまず、 「自分を不幸にしない力」なのだと思います。 --- 自分を不幸にしないために必要なこと。 私はそれを、「今に戻る姿勢」と考えています。 違和感があれば、立ち止まる。 そして「なぜ?」と問う。 この問いは、原因を分析したり、正解を求めるためではなく、 一瞬の「間」を設けることで、 ズレた自分をほどき、今に戻るための問いです。 何かをしたいのに違和感を覚えるとき。 なぜ、これをしたいのだろう。 このように問いかけることで、余計なものが落ちていく。 そして、自然に次の一手が見えてくる。 --- すべての出来事は、意味を持っている。 そう考えるならば、 大切なのは「なぜ起きたのか」を解釈しきることではなく、 「その出来事を通して、今に戻ること」だと思います。 --- 茶道は、客をもてなすものです。 たしかに、招かれた客が心地よく過ごすことは大切ですし、 我々茶人もそこに心を配ります。 しかしその前に問われるのは、 **茶を点てる側の在り方**だと考えています。 点前を披露する中で、間違ったりうまくいかなかったりすることはよくあることです。 その一瞬のズレに気づき、点前をしている「今この時」に意識を戻す。 間違いを引きずったり、次も失敗するかもしれないという不安にとらわれたりしない。 今できることを、精一杯する。 そして、次の一手へ進む。 間違いに囚われ、次の一手が出せないのは、 自分を不幸にしている...
「茶道」という言葉にある「道」のことを考えていると、裏千家の千宗室家元が述べられている、 「道を求める」という気持ちは大切だが、「どういうのが道だとか、定める気はない」 という言葉を思い出します。 茶道のもとにあるのは、茶の湯です。しかし、茶の湯はもともと「茶道」という一つの完成された体系として、誰かが始めたものではありません。 村田珠光、武野紹鷗、千利休――。 先人たちによって、茶の湯は少しずつ形を変え、深められていきました。歴史的にも有名な利休は、その流れを決定的に深化させた人物の一人ですが、「茶道」という定義を生み出した人物ではありません。 「茶術」でも「茶技」でもなく、「茶の道」。 そこには、茶人が自ら正解のない道を歩き、生涯をかけて自分なりの答えを見つけていくという意味があるのかもしれません。 道 たとえば柔道では、「道」という言葉の意味が比較的はっきりしています。 柔道は、もともと柔術という武術の技法から生まれました。柔道の創始者である嘉納治五郎先生は、さまざまな柔術の技を整理し、安全に修練できる体系へと整え、それを「柔道」と名づけました。そして、柔道を単なる勝負のための技術ではなく、人間を鍛錬する「道」として明確に位置づけました。 その意味では、茶道にも、点前の型を学び、客人と相まみえることで礼儀作法を学び、自分の心を清浄に保つことを求めていくという、人間鍛錬としての「道」があるのだと思います。 ただ、スポーツには明確な目標があります。 柔道ならば、試合に勝つことができます。オリンピックなら、金メダルという誰の目にも分かる到達点があります。もちろん、柔道そのものはスポーツだけではありません。しかし、少なくとも競技としての柔道には、「勝った」「負けた」という明確な基準があります。 茶の湯には、それがありません。 茶会に「金メダル」も、勝敗もありません。 どれほど長く稽古を続けても、そこに勝敗や結果があるわけではなく、また次の一服が待っています。 季節が変わり、客が変わり、自分自身も変わっています。 面白いのは、茶道を深く知れば知るほど、問いが増えていくことです。 どの茶がよいのだろう。 どんなしつらえがよいのだろう。 あの客人は満足されたのだろうか。 茶の湯の世界に身を置いた当初は、とにかく稽古を重ねて型を学び、正しい手順で茶を点てることを求めればよかっ...