茶人として茶道に携わる身ではありますが、普段は別に和服を着るということもなく、ごく普通の服装で過ごしています。 そして、縁あって指輪を常に指につけているのですが、茶事の場では外しています。 理由は、概ね二つあります。 自分が華美に過ぎないようにすること 茶道具に傷をつけないようにすること 茶事で位が高い、主人公となるべきものは茶そのものと相対するお客さん、という考え方から、茶人は服装などで主張しすぎないというのが暗黙の了解としてあります。 人によって考え方は異なるかもしれませんが、茶人はお客さんをもてなす立場なので、自分を下げることで相手を引き立てようとすることが理由だと思っています。アクセサリー類も同じで、茶人が点前を披露するとき、その装飾が悪目立ちすることで本来献ずるべき点前や茶の印象がぶれてしまうのは避けたいところです。 道具を壊さない そして、指輪によって道具に傷がついたり壊れたりすることを避けたいというのも大きな理由です。例えば陶器である茶碗を手に持つとき、指輪が碗の肌にぶつかると、割れや欠けが生じたり、表面の釉薬や土を削り取ってしまったりする可能性があります。また、茶筅の穂先が指輪に絡まったり、茶杓の軸が指と指輪の間に挟まったりして、道具が折れてしまうということもあり得ます。 人間と同じように、道具にも寿命はあります。使い続ければ摩耗などでいずれは壊れてしまいますし、意図せずとも不用意な扱いで壊してしまうこともあります。ただ、指輪などアクセサリー類は初めから着用しないか、茶事の際に外しておくことで道具の破壊リスクを抑えることはできます。もしかしたら今日の点前で道具が壊れるかもしれない、だからこそ自分が壊す可能性はできるだけ排除しておきたいものです。 ただ、そうはいっても、茶人だっておしゃれはしたいし、結婚指輪など大事なものについては茶事の時でも着用しておきたいもの。また、女性でネイルにこだわっている方もおられ、茶事に関わるたびにそれらを外したり消したりするのは抵抗があったりするものです。だったら、茶道なんてやらないという話にもなりかねない。 私は指輪を外しますし、指南するときに一応道具のことも考えてお話はします。ただ、強要はしませんし、アクセサリーやネイルでおしゃれを保ったままでいたい方には「茶道具に触るときに気を付けてください」という程度で止めています...
昨年柔道を観戦した時、なんとなく茶道と似ているような感覚を覚えたことがあります。 もちろん、ひたすら勝利を求めて柔道家同士が攻防を繰り広げる柔道と 静かに茶人が茶を点て、供する茶道は似ても似つかぬものとは思うのですが、 直感的に「何か似ている」と思っていました。 道着と着物、畳に上がる、相手に礼を尽くす。 見た目で似ているところはあるけれど、 もっと深いところで「つながっている」感覚。 一進一退の攻防を繰り広げる試合を見ているときに、ふと腑に落ちる瞬間がありました。 それは、「普段は広がり、決める瞬間だけ力が収束する」という時間の扱い方なのだと。 「見ている」時間と「仕掛ける」一点 柔道家は、試合が始まるとすぐに全力で投げにいくわけではなく、 組み手を取り、間合いを測り、相手の重心や呼吸を探っています。 容易に投げ倒されないよう、力は常に出しているものの、最大出力ではない。 組み手を取りつつ、技をかけられないように防御しながら、 攻め時を探して様子を見る時間がある。 そして、ある瞬間、「いまだ」と思ったときに相手の重心を崩し、 技を畳みかけるように掛ける。 その時、柔道家の持つ力(フィジカルなパワーと技をかけるという心の勢い)は 一点に集まる。 この流れは、点茶に向かう茶道の所作にも通じるように思います。 相対する客の様子、釜から上る湯気と釜鳴の音のバランスを見ながら、 点てる茶の味や温度を探っていく。 常に鋭いわけではないけれど、意識は広がっている。 ただ、茶筅を入れた瞬間、呼吸が変わる。 一気に力を凝縮し、無駄を消し、茶を点てる。 技をかけるように、茶人の持つ力(精神的な意味でのパワー)が一点に収束する。 時間が徐々に広がり、 柔道では「一本」へ 茶道では「点茶」へ 一気に加速して向かう流れ。 この上昇曲線はよく似ているように思います。 しかし決定的に違うもの 同時に、違いもはっきりしています。 スポーツや文化の差、動と静といったわかりやすい違いもあるけれど、 決定的な違いは「臨界点の性質」。 茶道では、力のピークがどこに来るかはあらかじめ決まっている。 点茶が核心であり、そこへ向けてあらゆる所作と時間は設計されている。 一方、柔道ではいつ崩しが成立するかは分からない。 相手の動き次第で、機は訪れたり、訪れなかったりする。 ...