茶道を教える場で、「先生」と呼ばれることがあります。 若い方からそう呼ばれることには、特に違和感はありません。 ところが、私よりずっと年上の方から「先生」と呼ばれることがあります。 人生という時間だけを考えれば、その方は私よりずっと先を歩いてきた人です。 それなのに、先生と呼ばれることに、申し訳ない気分になることがあります。 「先に歩む人」 改めて「先生」という漢字を見てみると、「先」と「生」から成っています。 「先」は、前、以前、先に、という意味。 「生」は、生まれる、生きる、という意味です。 「先生」という言葉には、もともと「先に生まれた人」「先に学んだ人」といった、時間的な「先」の感覚があります。 「先生」と聞くと、自分が学生だった頃の教師を思い浮かべます。 子供の頃の記憶ですから、教師とは絶対的な大人であり、私の中では「先に生まれた人」というイメージがとても強いのだと思います。 しかし、実際の「先生」は、必ずしも年齢の上の人ではありません。 たとえば、70歳の人が、年下の私から茶道を習っているとします。 人生においては、その方が私よりずっと先輩です。 けれども、茶道という道においては、私のほうが先に歩いている。 そう考えると、「先」という言葉は、年齢だけを指しているのではないことに気づきます。 先に生きた人 先に学んだ人 そして、先にその道を歩んでいる人 「先生」とは、必ずしも「自分より長く生きた人」ではなく、 自分より先に、その道を歩んでいる人。 そう考えると、「先生」という言葉が少し違って見えてきます。 「師範」 茶道をしていると、もう一つ「師範」という言葉にも出会うことがあります。 「先生」と「師範」は、似ているようで少し違います。 師範は、いわばその人の立場や、教えることを認められた資格・立場を表す言葉です。 茶名を取り、弟子を取って稽古をつけているからには、立場上、私は「石州流の師範です」と称することができます。弟子も、対外的に私を紹介するときに「茶道の師範です」ということができます。 一方、「先生」というのは、稽古の場で弟子から呼ばれることが多く、おそらく人との関係の中で生まれる呼び名なのだろうと思っています。 だから、私は「師範」でありながら、「先生」でもあるのでしょう。 「師匠」 さらに、「師匠」という言葉があります。 これは「先生」よりも、...
8月の中旬になると、私たちは「お盆」と呼ばれる期間を過ごすことになります。 私の地元では、初盆を迎えた祖霊への祈りとともに、小舟に乗せたたいまつを川に流す「精霊流し」の風習があります。 祖父母をはじめ、これまでの人生で少なからず家族を見送ってきたので、お盆と聞くと、この精霊流しをよく思い出します。 なんとなく、ご先祖様のことを考える時期。 私はこれまで、そんな感覚でお盆を捉えてきました。 一方で、お盆にしかご先祖様が帰ってこないのであれば、母が毎日欠かさず行っている仏壇へのお供えや読経には、どのような意味があるのだろう。また、お盆でなくても墓参りができることは、どう考えればよいのだろう。 そんな疑問を、長年持っていました。 ご先祖様は、お盆以外の日にはどこにいるのでしょうか。 お盆の数日間だけ、この世とあの世を自由に行き来できるのでしょうか。 盂蘭盆会 「お盆」という言葉は、仏教の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」に由来します。 その起源としてよく知られているのが、仏弟子・目連尊者の説話です。 目連が神通力によって亡くなった母の姿を見たところ、母は苦しみの中にいました。 そこで目連は、どうすれば母を救えるのかと仏に尋ね、仏の導きに従って、修行期間を終えようとする僧侶たちに食事などを施し、供養することによって、その功徳を母に回向するという話です。 盂蘭盆会は、単純に「死者が帰ってくる日」ではなく、もともとは亡き親や先祖を供養する性格を持った仏教行事だったわけです。 そして、盂蘭盆会は中国などで旧暦の7月15日を中心とする行事として定着していきました。 その背景の一つには、仏教における「雨安居(うあんご)」という習慣があります。 雨安居とは、雨季に僧侶が一か所にとどまって修行する期間のことです。その修行期間が終わる頃に僧侶たちへ供養する習慣などが、盂蘭盆会の形成に関係したとされています。 それが日本に伝わると、古くからの祖霊を迎える習俗とも結びついていきました。 そして、明治時代に新暦が採用された後も、地域によっては旧暦7月の時期に行っていた行事を新暦の8月に移す形で残り、現在の「8月のお盆」へと定着していったのです。 なぜ、この時期なのか また、8月という時期は、農耕社会においても一つの節目となる時期でした。 地域によって農作業の時期には違いがありますが、春から初夏にかけて田...