I AM WHO I AM. 私は私である。 旧約聖書の『出エジプト記』にある一節「燃える柴」のストーリーで、モーセが初めて神に出会い、その名を尋ねた際に神から返ってきた言葉です。 私は聖書に詳しくはないのですが、先日の「金と茶」という記事を書いていたときに、どこかで見聞きしたこの言葉をふと思い出しました。 同じ流派にいて、同じように稽古を積んでも、点前にはその人となりが表れるものです。 稽古の仕方によっては、誰が点てても同じになるよう、点前の根本にかかわる部分ではあまり人となりが出ないように指導することもあります。しかし私は、基本さえ外さなければ、その先は人それぞれでよいと思っています。 茶道の世界に身を置いて、20年近くになります。 入門したばかりの頃と比べれば、茶名も拝領しましたから、おそらく点前も上達したでしょうし、立ち居振る舞いも少しは板についてきたと思います。 ただ、あの頃と変わらないものがあります。 「格好よく、おいしいお茶を点てたい。」 その思いです。 師匠に初めて点てていただいた抹茶のおいしさ。 その点前の美しさに魅了された記憶。 それは、数え切れないほど稽古を重ねた今でも、私の中に変わらず残っています。 一方で、この20年で大きく変わったこともあります。 それが、私にとっての 「I AM WHO I AM」。 以前は、教わった点前をそのまま身につけることに一生懸命でした。 しかし今は、受け継いできた伝統を大切にしながらも、その上で「私だからできる茶の湯」とは何かを考えるようになりました。 伝統を変えるのではなく、受け継いだものを、自分という人間を通して表現したいと思っています。 私は身長が高い割に体が細いので、体を大きく動かすことで点前に伸びやかさを持たせつつ、線の細さを活かして細かな所作には繊細さを加えることを意識しています。 茶室の中を歩くときは恰幅良く、立ったり座ったりするときは堂々と。 一方で、茶碗や茶杓を手に取るときは、指の細さを活かして優雅さを意識する。 道具選びや茶葉についても、流派の好みを尊重しながら、自分だからこそ表現できる取り合わせを探しています。 着物も、招かれた茶会では伝統通り正絹のものを着用しますが、自分が主催する茶会では、あえて作務衣であったり、デニム生地など一風変わった素材の着物を試したりしています。 今の私は、 「...
私に直接会われた方ならお分かりかとは思いますが、私は普段金製の指輪や腕輪を着用しています。主にはスピリチュアルな面でのお守りとしてですが、実生活ではファッションや資産価値の意味もあります。 金が好きといえば、なんだか成金趣味のような印象が持たれがちですが、私が金に惹かれる理由はそれが富の象徴だからというより、その化学的な特性によるところが大きいです。 金は鉱石として長きに亘って地中に眠っており、それが掘り起こされたものが精錬され、溶かされ、延ばされ、打たれていきます。 その結果、インゴットや硬貨、指輪などのアクセサリーや金糸にいたるまで、さまざまな形へと姿を変えることができます。 でも、どんな形となっても、金であり続ける。 その柔軟性と不変性に惹かれているのだと思います。 世界一の金に触れて 先日、オーストラリアのパース造幣局を訪れ、一トンもの純金で作られた世界最大の金貨を目にしました。 もちろん、その価値の大きさには驚かされましたが、それよりも金という存在の重みに心が惹かれました。 造幣局スタッフの説明によれば、簡単に持ち運べない1トンもの重量が何よりの防犯対策となっているとのこと。 これがコインではなく、金塊や金糸のような形であっても、重量は変わらないので簡単に盗み出せないことを強調していました。 形は変われど、その価値の重みも変わらない。 金と茶 茶の湯は、金のように形あるものではありません。 茶碗も茶杓もありますが、本質は道具ではありません。 稽古を重ねること。 客を迎えること。 一碗の茶に心を尽くすこと。 その積み重ねの中で、自分自身を整え続ける営みです。 金と茶といえば、一見すると全く異なるものですが、 今回の旅を通じて、その根底に同じものが流れていることに気づきました。 それは、 「本質を失わずに変わり続けること」 です。 1トンの金は、金貨になろうと金塊になろうと金糸になろうと、 1トンの金であり続けます。 茶人もまた、年齢を重ね稽古を繰り返すことで、変わります。 私自身も、茶道を始めたばかりの頃と茶名を取っている今とでは考え方も違うでしょう。 当然、点前への姿勢も、茶人として見る景色も違うと思います。...