京都・東寺のほど近くで、友人が茶を専門とする小さなカフェを営んでいます。 彼は裏千家で茶の湯を学びながら、自身の店では抹茶に限らず、和紅茶や中国茶など、世界各地から自らの感性で選び抜いた茶と、それぞれに合わせた料理や菓子を、茶懐石になぞらえて提供しています。 私も、その自由な発想と独創性に惹かれ、折に触れて店を訪れています。 そんな彼が、先日点ててくれた一碗は、私にとっても初めて出会うものでした。 店の奥にある茶室でいただいたその茶を口に含むと、慣れ親しんだ抹茶の風味の奥から、何とも言えない深みがゆっくりと広がっていきます。 まるで上質な椀物をいただいているような、穏やかな旨味です。 ほどなくして、その抹茶は湯ではなく、帆立の出汁で点てられていたことが明かされました。 普段、茶の湯では炭で沸かした湯を用いますから、その意味では、伝統的な一服とは言えません。 けれども、不思議なことに「受け入れられない」という感覚はまったくありませんでした。 むしろ、「こんな表現もあるのか」と、素直に楽しんでいる自分がいました。 私自身は、これからも炭で湯を沸かし、その湯で抹茶を点てる。 その道を、この先も変わらず歩んでいきたいと思っています。 一方で、友人は茶の持つ可能性を探ることをライフワークとし、伝統をただ繰り返すのではなく、茶という素材を通して新しい表現を生み出そうとしています。 そうした彼の姿勢は、以前から知っていました。 だからこそ、今回の一碗にも納得がありました。 伝統を十分に学んだ人が、一時的に型を外す。 その挑戦は、ときに伝統の価値を別の角度から照らし出します。 一方で、伝統を知らないまま「新しいこと」を目指せば、それは挑戦ではなく、単なる奇抜さに終わってしまうでしょう。 友人は今もなお、茶の湯の稽古を続けています。 その積み重ねがあるからこそ、今回の驚きは単なる話題づくりではなく、一つの表現として成立していました。 私が素直に受け入れることができたのは、それが帆立の出汁だったからではありません。 その一碗の向こうに、伝統を学び続ける友人の姿勢が見えたからです。 大切なのは、「何を変えるか」ではなく、「何を決して変えないか」を知ること。 友人は、その塩梅が実にうまい。 だからこそ、私は彼の挑戦を安心して楽しむことができます。 独創性とは、伝統を捨てることで...
I AM WHO I AM. 私は私である。 旧約聖書の『出エジプト記』にある一節「燃える柴」のストーリーで、モーセが初めて神に出会い、その名を尋ねた際に神から返ってきた言葉です。 私は聖書に詳しくはないのですが、先日の「金と茶」という記事を書いていたときに、どこかで見聞きしたこの言葉をふと思い出しました。 同じ流派にいて、同じように稽古を積んでも、点前にはその人となりが表れるものです。 稽古の仕方によっては、誰が点てても同じになるよう、点前の根本にかかわる部分ではあまり人となりが出ないように指導することもあります。しかし私は、基本さえ外さなければ、その先は人それぞれでよいと思っています。 茶道の世界に身を置いて、20年近くになります。 入門したばかりの頃と比べれば、茶名も拝領しましたから、おそらく点前も上達したでしょうし、立ち居振る舞いも少しは板についてきたと思います。 ただ、あの頃と変わらないものがあります。 「格好よく、おいしいお茶を点てたい。」 その思いです。 師匠に初めて点てていただいた抹茶のおいしさ。 その点前の美しさに魅了された記憶。 それは、数え切れないほど稽古を重ねた今でも、私の中に変わらず残っています。 一方で、この20年で大きく変わったこともあります。 それが、私にとっての 「I AM WHO I AM」。 以前は、教わった点前をそのまま身につけることに一生懸命でした。 しかし今は、受け継いできた伝統を大切にしながらも、その上で「私だからできる茶の湯」とは何かを考えるようになりました。 伝統を変えるのではなく、受け継いだものを、自分という人間を通して表現したいと思っています。 私は身長が高い割に体が細いので、体を大きく動かすことで点前に伸びやかさを持たせつつ、線の細さを活かして細かな所作には繊細さを加えることを意識しています。 茶室の中を歩くときは恰幅良く、立ったり座ったりするときは堂々と。 一方で、茶碗や茶杓を手に取るときは、指の細さを活かして優雅さを意識する。 道具選びや茶葉についても、流派の好みを尊重しながら、自分だからこそ表現できる取り合わせを探しています。 着物も、招かれた茶会では伝統通り正絹のものを着用しますが、自分が主催する茶会では、あえて作務衣であったり、デニム生地など一風変わった素材の着物を試したりしています。 今の私は、 「...