昨年柔道を観戦した時、なんとなく茶道と似ているような感覚を覚えたことがあります。 もちろん、ひたすら勝利を求めて柔道家同士が攻防を繰り広げる柔道と 静かに茶人が茶を点て、供する茶道は似ても似つかぬものとは思うのですが、 直感的に「何か似ている」と思っていました。 道着と着物、畳に上がる、相手に礼を尽くす。 見た目で似ているところはあるけれど、 もっと深いところで「つながっている」感覚。 一進一退の攻防を繰り広げる試合を見ているときに、ふと腑に落ちる瞬間がありました。 それは、「普段は広がり、決める瞬間だけ力が収束する」という時間の扱い方なのだと。 「見ている」時間と「仕掛ける」一点 柔道家は、試合が始まるとすぐに全力で投げにいくわけではなく、 組み手を取り、間合いを測り、相手の重心や呼吸を探っています。 容易に投げ倒されないよう、力は常に出しているものの、最大出力ではない。 組み手を取りつつ、技をかけられないように防御しながら、 攻め時を探して様子を見る時間がある。 そして、ある瞬間、「いまだ」と思ったときに相手の重心を崩し、 技を畳みかけるように掛ける。 その時、柔道家の持つ力(フィジカルなパワーと技をかけるという心の勢い)は 一点に集まる。 この流れは、点茶に向かう茶道の所作にも通じるように思います。 相対する客の様子、釜から上る湯気と釜鳴の音のバランスを見ながら、 点てる茶の味や温度を探っていく。 常に鋭いわけではないけれど、意識は広がっている。 ただ、茶筅を入れた瞬間、呼吸が変わる。 一気に力を凝縮し、無駄を消し、茶を点てる。 技をかけるように、茶人の持つ力(精神的な意味でのパワー)が一点に収束する。 時間が徐々に広がり、 柔道では「一本」へ 茶道では「点茶」へ 一気に加速して向かう流れ。 この上昇曲線はよく似ているように思います。 しかし決定的に違うもの 同時に、違いもはっきりしています。 スポーツや文化の差、動と静といったわかりやすい違いもあるけれど、 決定的な違いは「臨界点の性質」。 茶道では、力のピークがどこに来るかはあらかじめ決まっている。 点茶が核心であり、そこへ向けてあらゆる所作と時間は設計されている。 一方、柔道ではいつ崩しが成立するかは分からない。 相手の動き次第で、機は訪れたり、訪れなかったりする。 ...
茶道というと、 静かでゆったりとした動きを思い浮かべるかもしれません 。 けれども実は、その美しさは「指先」にまで宿っています。 今日は、私が日々の点前で大切にしている 「遅れ指」と「払い指」 という二つの所作について紹介したいと思います。 遅れ指 ― 終わりを丁寧にする 茶筅 を畳の上に置くとき、点前役は親指・人差し指・ 中指の三本で胴を持ちます。 そして、茶筅の胴下が床に触れた瞬間、中指を広げて胴から離し、 薬指と小指とともに3本の指をそっと床に据えて支えにします。 そうすることで、 茶筅が不用意に倒れたり転がったりすることを防ぎます。 この3本の指のことを「遅れ指」といいます。 茶筅は、茶碗の中の茶葉とお湯に直接触れるものです。 もし転がって穂先が床に触れてしまえば、 茶そのものに穢れが移ってしまいます。 お客様が口にされる一碗に穢れが及ばないよう、 茶筅の扱いにも細心の注意が求められます。 だからこそ、倒れないように、 でも強く押さえつけることはしません。 あくまでやわらかく、しかし確実に。 物を置くという動作は、つい気がゆるみやすい瞬間でもあります。 けれども遅れ指は、「終わりこそ丁寧に」 という気持ちを形にした所作です。 きちんと置いたことを、最後の指先で静かに確認する。 そこには道具への敬意と、場への配慮が込められています。 払い指 ― 始まりをやさしく開く 一方、茶入(茶葉の入った小さな壺状の入れ物) を手に取るときの所作が「払い指」です。 最初から指を開いて掴むのではなく、 まず拳を閉じ、茶入の真上に手を持っていきます。 そして、小指から順に指をぱらぱらと開きながら、 やさしく胴に触れていきます。 この動作が、まるで茶入の穢れを払うような仕草であることから、 「払い指」といいます。 この所作は、派祖・ 大口樵翁が嗜んでいた香道の作法を取り入れたものだと伝えられて います。私はこの動きを、 茶入の頭をそっと撫でるような気持ちで行っています。 いきなり掴まない。 まず触れ、そして受け取る。 それは優雅に見せるためだけではありません。 道具を大切に扱い、場の空気を乱さないための、 静かな心づかい...