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遥拝(丹生川上~御神島)

先般訪れた、福井県の「御神島」。 (先般の記事は、 こちら をご参照) 別件で近くの天川村に行く用事があったので、その途中で御神島への橋渡しをしてくれた丹生川上神社(下社)さんに、お礼のご挨拶に伺いました。 御神島に入島できなかったけど、島の全景を拝することができるスポットにたどり着けたことなどを報告し、当日神社の本殿に向かって祝詞を唱えて頂いたことについて、宮司さんと社務所の職員さんにお礼を申し上げました。 すると、宮司さんから「入島できないほうが、よかったのだと思います。」との言葉がありました。 宮司さんから聞かせて頂いたお話 神道には、「遥拝」という儀礼がある。遠くの目の前に見えない神様のことを心に浮かべ、その存在の思いの中に意識を向けながら、祈りを伝えることを意味する。 「祈り」は双方向ではなく、常に一方通行。その存在にただ有難さを感じるだけで、何かの利益を求めることではない。 祈りの結果、神様からもたらされる恩恵は、自分がどれだけ深く強く神様に対して有難い気持ちを祈ったかによる。 古来、人々はこの遥拝の力をよく知っていた。だから神域には恐れ多いとしてむやみに近寄らず、そこにおられる神様へ思いをはせ、遠くから一心に拝むことで祈りをささげていた。「遥拝」が、本来神様と人間をつなぐ方法だった。 下社では、丹生山頂の本殿に普段はだれも近づけない。そしてその本殿は、遠く真北の御神島に通じている。下社の祭祀は、実はこの「遥拝」の力を大切にしたもの。人はふもとの拝殿から、遠い山頂の本殿に向かって祈り、その祈りはさらに遠くの御神島に届けられる。その遠さ(深さ)の分だけ、御神島から頂く恩恵は計り知れない。 「御神島」は正確には「おんがみじま」だが、下社では祭神の名前「闇龗(くらおかみ)」にちなんで、「おかみじま」と呼んでいる。島自体が、龗(雨をコントロールする龍神)のご神体だと理解している。 このような有難い話の後で、宮司さんから、入島できていたら、感動したかもしれないけれど、単なるパワースポット巡りに終わっていたかもしれないですね、と改めて言葉を頂きました。 その上で、遠くから島の姿を拝むことで、遠くて見えない神様への思いはより一層強くなったのではないでしょうか。だから、遥拝のほうがきっと神様が喜びますよ、と思いもしなかった視点での考え方を頂いて、

御神島(福井県若狭町)

御神島(おんがみじま)は、福井県若狭町の常神半島の先端から西方 500m の沖合に位置する島です。 通常は無人島ですが、常神半島の集落にある民宿などの漁業関係者に頼めば、気象条件等が適している場合に船を出してくれることがあります。 夏場には魚釣りや海水浴などのレジャーを求めて、定期的に観光客が入島するようです。 常に神がいるところ この島が「御神島」と呼ばれる所以は、 629 年に欽明天皇が発した勅令により、島内に「常神大明神」を祭る神社を建てたことに遡ります。 古くから、気比神宮のある敦賀と常神半島は海運でつながる「セット」として見られていたようで、現在は島内から半島側の集落に移されている「常神社」の経緯を辿ると、 その歴史が古いことがよくわかります。 常神社は、「式内社」(平安時代の神社リスト:延喜式神名帳に掲載されている神社)であることから、少なくとも創建から 1,400 年は経過。 創始年代は不明だが、 986 年に常神半島から御神島に遷座し、その後 1108 年にふたたび半島に戻り、現在に至る 祭神は、気比神宮と同じ「神功皇后」 かつては、常宮神社(敦賀市・気比神宮の奥宮)の神官が船で常神社に渡り、祭祀を執り行っていた。 丹生川上神社(下社)とのつながり 奈良県吉野郡下市にある丹生川上神社下社は、水の神様である「闇龗神(くらおかみのかみ)」を祭る神社です。 神話上、初代・神武天皇が最初に祭祀を始めた「丹生川上」の地とされ、古くから「祈雨・止雨」の神様として、歴代の天皇が勅使を送り、直々に奉幣する「二十二社」のひとつでした。 (丹生川上神社下社については、以前の記事もご参照ください) 境内には、背面にある丹生山の頂に本殿があり、地上の拝殿とは山腹に配置されている 75 段の階段でつながっています。 昔は昇段を一切許されず、ふもとから山頂にいる神様を仰ぎ見ていたようです。現在でも通常は昇段できませんが、毎年 6 月の例祭に限り、一般の人でも階段を昇ることが可能です。 この階段、明治以来長年に亘って使用され老朽化が激しかったこともあり、数年前に大改修しました。 その改修工事の最中、古い階段を撤去したときに、地下に埋められていた古文書が発見されたとのこと。 そこには、本殿からみて真北の方向に歴代の都(橿原宮(橿原神宮)→藤原

比治山神社(広島市)

比治山神社は、広島市南区の比治山公園内に存在する神社です。 もともとは、比治山の南にある「黄幡谷」に鎮座していた神社でしたが、 1646 年に真言宗勝楽寺の境内へ、その後寛文年間( 1661-1673 年)に現在地に移りました。 しばらくは神仏混合の産土神として近隣住民に信仰されていましたが、明治の神仏分離の際に、勝楽寺を廃して「比治山神社」としての道を歩みました。   祭神の不思議 当社では、オオクニヌシ、スクナヒコ、イチキシマヒメ、スサノオ、そして車折大明神の 5 柱の神々が、同じ本殿に祭られているのですが、この神々のチョイスに面白みを感じる神社マニアのわたくし。 広島ということで、厳島神社の神様であるイチキシマヒメを祭るのは理解できます。 また、島根と陸続きであることなどから、出雲地方にゆかりのあるオオクニヌシ、スクナヒコ、スサノオが合祀されているのも感慨深い。 さらに、神話上、皇祖アマテラスの娘であるイチキシマヒメの誕生には、アマテラスの末弟・スサノオが深くかかわっていることから、天津神(アマテラス系)と国津神(オオクニヌシ / スサノオ系)の融合に深く感じ入る神社でもあります。 謎なのは、車折(くるまざき)大明神。 京都市右京区の車折神社に鎮座する神様で、もとは平安時代の貴族である清原頼業(きよはらのよりなり)を死後、神格化したものとされています。 儒学を修めた学識によって朝廷を支えた賢人として有名な頼業ですが、清原氏の領地のあった京都に祭られるのはよいとして、なぜ広島におられるのだろうか。。。 少し調べてみると、頼業の役職にヒントが隠されていました。 彼が朝廷から任命されたのは、「直講兼周防介」。 直講とは、平安時代における大学教授、兼務している周防介は周防国の知事?のようなものと解釈できます。 周防国は、現在でいう山口県防府市あたりの地域を指し、戦国時代は現在の広島市も含めて毛利家による支配を受けていました。 その流れから、比治山神社には頼業が合祀されているのかもしれません。   1945 年 8 月 6 日 広島市のほとんどは、この日に投下された原子爆弾によって破壊されました。 比治山神社も、例外ではありません。 これが、これまで広島の神社を訪ねることに個人的に躊躇していたところでもあり

豊国神社(宮島)

豊国神社は、死後に「豊国大明神」と神格化した豊臣秀吉の御霊を祭る神社のことで、京都や大阪など、秀吉ゆかりの場所に建立されています。 広島県の宮島にも、「千畳敷」として有名な豊国神社が存在します。祭神は、もちろん秀吉=豊国大明神です。 元・仏閣 豊国神社は、もともとは神社ではありません。その起源は、1587年に秀吉が戦没者慰霊のための納経所として発願したことに遡ります。秀吉は、安芸を治めていた毛利輝元に納経所の建設を命じ、毛利家配下の僧侶・安国寺恵瓊が建設の現場監督を務めたとされています。 ただ、建設途中に秀吉が亡くなり、工事が中断されたため、壁や天井の装飾が未完成のまま、今日まで至っています。 神社でも、秀吉の御霊を祭る場所でもないこの仏閣は、のちに明治の廃仏毀釈を受けて内部の仏像類をすべて別の場所に移し、1872年に豊国大明神を祭る神社(厳島神社の末社)として再出発しています。 だだっ広い千畳敷 内部は、「千畳敷」という俗称の由来となった畳857枚分に及ぶ面積を誇る、黒色の板張が床面いっぱいに広がっており、その黒さ?と広さに圧倒されます。 なぜでしょう、こういう広い空間にいると、必ずハイテンションで駆け回る子供が複数出現するのは・・・(笑)。小さな子供たちがはしゃいで走り回り、それを制するために声を挙げたり、子供の後ろを駆け回るご両親の姿があちらこちらで・・・。 日本の家は狭いから、こんなに広いと駆け回りたくなる気持ちはよくわかります。 さらによくわかるのは、大の字になって昼寝?する大人たちの気持ち。 特に身長が高く、大抵のベッドや布団では足先がはみ出てしまう体型のわたくし、そんな大人たちに交じって、大の字で寝転がっていましたとも。 この板張を含めた本殿自体が、国指定の重要文化財となっているようです。 重要文化財の中で昼寝、、、最高です(笑)。 宮島の隠れパワースポット(謎)。

厳島神社

厳島神社は、広島県廿日市市の厳島(通称:宮島)に位置する神社で、 1996 年に UNESCO 世界遺産に登録されています。日本三大景観の一つ「安芸の宮島」として、特に海上に浮かぶ朱色の大鳥居が有名です。(大鳥居は、現在修復工事のため全容を見ることはできません) 広島市から JR もしくは広島電鉄経由宮島口駅からフェリー、あるいは原爆ドーム近くの乗り場から高速船で島に向かうのが一般的なアクセスです。 社伝では 593 年に創始されたとあり、特に平安末期からは平氏が一門の氏神として、あるいは瀬戸内海の守り神として厚く崇敬していたことで有名です。 中でも、金や銀の糸をふんだんに使用した豪奢な巻物に、平清盛が金泥を用いて自書した願文や般若心経などの写経を収めたことは有名で、これらはすべて神社所有の国宝として認定されています。神社の宝物館では、この納経の一部複製を見ることができ ます。 イツクシマ 厳島神社の祭神は、福岡県宗像市にある 宗像大社 と同じ、「宗像 3 女神」(タギツヒメ、タゴリヒメ、イチキシマヒメ)です。いわゆる「ご利益」にあたる神徳については、宗像大社と同様、交通安全の守護神として、また神仏習合時代に 3 女神の末妹・イチキシマイメが弁才天と同一視されたことから、そのご利益(財運、弁論・芸術運向上)が期待されています。さらに、女神様であることから、女性を守護する神様としても有名です。   島の名前「イツクシマ」という音は、イチキシマヒメの名前が転じたとも言われていますが、厳島自体を「神が斎(いつ)かれる」神聖な場所、あるいは仏教的な浄土(この世の終わりに行き着く島)としてあがめていたことに由来しているとも考えられています。また、作家の高田崇史氏は、厳島神社は怨霊を「居付かせる」、つまり封じる意味で建設された、という説を唱えています。   社殿 一門の繁栄を祈り、氏神として積極的に寄進をしてきた平清盛とその一族の趣向が反映されているのか、社殿は平安貴族の邸宅である「寝殿造」形式をとっており、現代でも国宝に指定されています。 満潮・干潮のタイミングにより、夜間~朝方にかけては社殿の下部は海水で満たされ、あたかも神社が海に浮いているような風景が楽しめます。一方、太陽が昇るにつれて次第に潮が引き、今度は地面の上に立つ神社として姿を

ありがとう25,000回(小林正観さんの教え)

ありがとう 25,000 回。 小林正観さんが著書などで紹介されていて有名ですが、「ありがとう」という言葉を 25,000 回唱えると、涙があふれてきて、人生が「すべてがうまくいく奇跡モード」に変化していくらしいのです。 病気が治るとか、思い通りのことが起きたとか、体験談は数知れません。   「ありがとう」を 25,000 回、一気に言おうとすると、早口の方でも 4 時間以上は必要です。 累積で 25,000 回に到達すればよいので、例えば一回に 10 分ごと、数日に分ける形でもよいとのこと。   ただし、不平不満、怒りや愚痴などのマイナスの言葉を一度でも口にしてしまうと、カウンターはゼロ。 1 回目からやり直すというルールです。 ( 24,999 回目に、マイナスな言葉を口にしたら、なんと 24,999 回がゼロに戻り、 1 回目からやり直し。。。) これには救済措置があって、マイナスな言葉を言った後、 10 秒以内に「今のは無しです。」と言葉にすれば、ゼロには戻らないようです。     これぞと思ったら猪突猛進なB型男( ´艸`)、さっそくやってみました。 もともと、神様の祝詞を20万回くらい3か月かけて唱えるという、謎の修行を経験した身からすれば、25,000回というボリューム自体にそれほど抵抗はありませんでした。 ただ、やはり出てくる「マイナスな言葉」。 仕事でのイライラなどが無意識に口に出て、救済を失敗した(10秒以内に打ち消せなかった)ことが数回あり、何度かやり直ししながらの挑戦でした。 それでも、何とか救済措置に支えられながら、 25,000 回を 2 日に分けてようやく達成。 (しかも、マイナスな言葉が出やすい仕事のない休日を活用!) 達成後の心境 25,000 回達成後、書籍にあるような「涙が出る」ようなことはなかったのですが、物事のとらえ方というか考え方が以前とは大きく異なっていることに気が付きました。 正確には 10,000 回を超えたあたりから、徐々にですが、以下のような変化を感じ取りました。 マイナスの言葉を言う頻度が極端に減った。言わない、もしくはポジティブな言葉へ変換して表現する習慣が身についてきた。 マイナスの言葉を言っても、必要以上に恐れたり否定したりせず、「そんな毒を吐く自分

October 2, 2022

"Happy" comes from the word "happening". When you say a happening, people tend to think it bad. You shall intentionally add some good wording to make the happening look or sound a better one. e.g. a great happening.  "Happy" also comes from the word "happen". A one-way event which makes you feel better: no path forward to keep being happy in the future. Thus, "being happy" doesn't necessarily mean positve. "I'm gratified" is a much better word to show your continuity on being positve. It also embraces negativity: you'll see there is no difference between positivity and negativity. It's always the one: Ying and Yang. When you say "I'm gratified", you can take things as it is without judgment on good and bad. That neutral status in mind is what God would like you to retrieve.

Septmeber 14, 2022

Work is a better way to construct your life. For your vital life and your living days. If you complain it, embrace your complaining part. Not for giving in. Just for observing as it is.   Yin and Yang. The Yin is a starter of the Yang. Never an order of Yang and Yin.  The complaining part is a starter to shine yourself. If you shine yourself, think of when you turn off the shine. Can ’ t keep shining forever as there are days and nights. When sleeping, you will turn off the light. That is applied to your life: Yin and Yang shall go around.   Being neutral not to judge good or bad. Today is your most matured day where you accumulated your experience and knowledge, and it your day with a baby step for unknown future. Focus on Now. Past is in the past; no returns. Future is in the future; no regrets. Now is your result of the past and seed for your future. No changes are applied to the Past. That said, changes are applied to how you define the Past. The redefining is always allowed; you m

September 13, 2022

Yin and Yang, light and darkness. It ’ s heads and tails of a coin.  Still a coin but it looks different when you look from a different angle. No attempts needed to get rid of darkness; bring them into your light. Embrace and accept them. Having learnt how to love, you also knew how to hate. To learn love, you shall know what hate is: a different form of loving. Love is active, while Hate is passive: it comes to you when expecting for being loved but having got betrayed. Say “ thank me ” first and you can embrace who you really are. It helps you accept a part of your darkness. An unthankful person cannot be thankful for others. Gratitude should be bestowed to you by yourself first: it ’ s to be a gratitude generator to others. When someone speaks ill of you behind your back, let ’ s celebrate it: the someone helps you get rid of your karma. Let ’ s bless him/her/them for having you in their mind enough to speak of you. They are not evils. They are messengers to let you know what probl

白に対する考察

2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」において、 安政の大獄を強いた 井伊大老と主人公の天璋院(篤姫)の対立関係が描かれる中で、将軍家への輿入れの際に篤姫の母代わりを務めた近衛家の老女・村岡局に関するエピソードが盛り込まれています。 幕府転覆をはかる朝廷の密勅を手助けしたとの疑いで奉行所に捕らえられ、気落ちしていた村岡に届けられた天璋院からのお見舞い。それは、天璋院の婚儀装束である大切な白い袿(うちき)。天璋院の真意を察して元気を取り戻した村岡は、 奉行の詮議にその袿を着て臨み、堂々とふるまうという演出が成されています。 白い袿を見た奉行が「観念して、罪を白状するための装束か」と問えば、村岡は「無実を証明できる、おめでたい日の装束」と応答。逆上した奉行が無理やり脱がそうとすると、村岡は「これは、先代将軍の正室・天璋院からもらったものであり、葵の御紋と同じもの」とさわやかに反論。白い袿を通して徳川将軍家がバックについていることを示し、詮議は終始村岡のペースで進む・・・という展開です。 村岡役を演じられた故・星由里子さんの凛とした佇まいと京言葉がとても印象に残っています。 ・・・ 私の「白」への印象は、このシーンに凝縮されています。 罪の「白」状を求める奉行と、村岡が示す潔「白」、村岡にとってめでたい日の正装、そして天璋院からのお守りとしての意味を持つ「白」い袿。村岡が反論に転じた際に、庭から差し込んでくる「白」い日差しの演出。 同じ「白」でも、このシーンにこれだけ様々な意味が込められています。 白と聞くと、なんだかさわやかできれいな印象です。 しかし、もしかすると日本ではもともと忌むべき色として見られていた印象を もっています。   一般的に、白が清いのはわかりやすいです。 和洋問わずに、花嫁衣裳として白いものが選ばれやすいですし、スピリチュアル的には浄化や 神様の色ともいわれている。ファッションでも、いろいろなコーディネートに合わせやすい代表的な 色でもある。 その反面、亡くなった方の死装束も白色ですし、時代劇などでもよく見られますが、昔の喪服は 白装束でした。また、汚れが目立ちやすいので、ファッションにも気を使いますしね。 さらに、精製した白砂糖や塩、白米は精製前よりも栄養素が少なくなっていることでも有名です。 加えて、「白」を使った日本語の単語や慣

判官びいきと村八分:安倍元首相殺害事件について思うこと②

  前回の記事 をご参照 「かわいそうな死に方をした人」への対応について、前回の記事で述べた。一方、「かわいそうな状況にあるひと」について同情を寄せるのも、日本人のお家芸の一つである。 安倍元首相殺害の容疑者に対し、その薄幸かつ不遇な半生を報道等で知り、同情する人たちが多いと聞くが、それは日本人の意識に根付く「判官びいき」によるものだろう。判官びいきは、「弱い者について、あえて冷静な判断をせず、同情を寄せること」であり、武勲がありながら兄に捨てられ、頼りにしていた奥州藤原氏の裏切りにあう源義経や赤穂浪士の吉良邸討ち入りを描く忠臣蔵が今も人気であることを思えば、国民の間で容疑者に対する同情の念が一定以上湧き上がってくることは無理もないと思う。 一方、突然、残酷な形で命を絶たれた安倍元総理について心を寄せ、昭恵夫人の様子を報じたり、安倍夫妻の在りし日を偲ぶ報道や国民の声も多い。 彼の政治実績を見ると、アベノミクスの恩恵にあずかったものはいるだろうし、長期政権により外交面で安心感を与え、日本の対外的な地位を上昇させたことは評価できる。一方、非正規雇用拡大による格差の助長、安保関連法案制定に関わる強硬的な姿勢や一連の「政治とカネ問題」、特に森友問題においては公文書偽造という民主主義における最大の汚点を招いたことを思えば、いまなお問題点は多い。 彼の政治に対する評価が功と罪にはっきり分かれていることを思うと、彼を偲ぶことも彼を慕う者による「判官びいき」といえよう。 私自身、国民の間で意見が分かれていても、根底には同じ「判官びいき」があるのだから、やはり日本人は日本人だな、と思っている。 この事件を機に、少しだけ刑法の条文に触れてみた。印象としては、「罪人に優しい」というものだ。 根底には「裁くものは罪であって、人ではない」という観念があり、最後まで罪人に更生と挽回の可能性を見出そうとしているように見える。その罪が社会の許容を超え、悪質だというときに極刑がやむを得ない手段として残されているが、判決からすぐに刑が処されるわけではない。というのは、人が罪を裁く以上、その判断が誤っているかもしれないことも考慮しており、たとえ極刑に処されたとしても、合理的な理由があれば、なお再審請求が可能となっているからである。また、その次に重い無期懲役についても、相当の年数は必要だが、受

安倍元首相の国葬について思うこと

古代から、「かわいそうな死に方をした貴人」に対しては、手厚く葬ってきた経緯がある。 概ね、「怨霊となって、世に出てくることが怖い」という当時の人々の死生観・宗教観が基となっている。例えば、失意のうちに死を遂げた菅原道真の怨霊が怖すぎて、時の朝廷は北野天満宮を作り、今でも丁重に祭っている。そのほかにも、非業の死を遂げた早良親王、井上内親王は京都の崇道神社や御霊神社に、日本一の大怨霊と言われた崇徳院に至っては、明治天皇が即位前に自ら配流先の讃岐から京都へと御霊を移し、白峯神宮を創設している。 政治的なイデオロギーはさておき、あのような亡くなり方をされた安倍元首相を国葬に、というのは、怨霊の話はともかくも、古代からのお家芸と思っている。皇位の「万世一系」をうたい、戦後の一時的な時期を除くと、ほとんど外国の支配による政体の変化がなかった日本において、古代も今も発想は変わらないのかな、と。 さて、私個人は、言葉は悪いが内閣総理大臣とは「国民の雇われ社長」という認識しかない。さらに言えば、政府は会社、国民は株主、国会を株主総会、内閣を取締役会だと思っている。 会社組織として、取締役会の決定は会社としての決定となるので、その社員は従わねばならない。ただし、株主はこれに従う必要はなく、会社の決定に不服ならば株主総会で疑義を呈することはできる。株主訴訟により、その決定を差し止めることも出来よう。 この例が正しければ、閣議決定による国葬について政府は従わねばならない。ただし、国民はどうであろうか。 賛成も反対もありきではなく、憲政上の最高決定機関である国会で丁寧に議論すべきではないのか、と思う。私は、国会で決められれば、個人として安倍元首相に対して持つ感情はともかく、粛々とやればいいと思っている。 逆に言えば、そのプロセスを経ず、たかだか取締役会ごときが株主の意見を聞かぬようであれば、国葬には反対する。

Japanese Emperors, where to be buried after death

Retrieved on 2022/7/15 from https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kondayama-ohjin_stereo.jpg#/media/ファイル:Kondayama-ohjin_stereo.jpg Go-ryo (御陵) or Mi-sa-sagi (陵) is a grave where bodies of the Emperor and the Empress of Japan are buried after they die. The current Emperor Naruhito (今上天皇徳仁) marks the 126th in the chrysanthemum throne and his father, the Emperor emeritus Akihito ( 上皇明仁: the former 125th Emperor) who abdicated the throne in 2019 is still alive, that is, there are 124 graves so far for the Sovereigns ranging from the legendary first Emperor Jimmu (神武天皇) to the 124th Emperor Showa (昭和天皇) who’s known as Hirohito (裕仁) and there will be one more added when the Emperor emeritus dies in future.  How Go-ryo is      The graves exist throughout Japan but concentrate mainly in Nara, Osaka, Kyoto and near-Tokyo area.      Chronically, the Emperors in the ancient time are buried in larger tumulus with keyhole shape ( circular‐shaped tomb with rectangular frontage ) or Zampo Kouen

The imperial villa in Katsura, Kyoto (Katsura Rikyu/桂離宮)

  Katsura Rikyu is one of the villas that Japanese government possesses as properties for the imperial family. That said, it is quite rare that the family including the Emperor visits this villa currently since it is based mainly on the cultural aspects to maintain and preserve the site to this day. The imperial status This villa was built as a villa for an imperial family member called Hachijo-no-miya in early Edo period. The family started with prince Tomohito as the first patriarch, who was a grandson of the 106th Emperor Ougi-machi. He wasn’t given chances to play major roles in the imperial court and politics despite his royal high status but he was said to be a genius in academics and gardening. Instead of his hope to take part in the politics, he decided to build his own villa as a synthesis of his talents having well-balanced huge garden. However, he died before he could complete the construction. His son, prince Tomotada took over the family but he was just a child that ti

Entsu-in Temple(円通院)、Matsushima Miyagi

Entsu-in Temple (円通院) is a Buddhist temple for Rinzai-Sect., in Matushima, Miyagi. It was built by the 100th head-monk of Zuigan-ji temple in its adjacent in 1647 for a memorial service for Date Mitsumune (伊達光宗) who was Masamune’s grandson and died at the age of 19 in 1645. (This article ogirinates in a previous article in Japanese.) Date Mitsumune      Mitsumune was born in 1627 as the second child of Date Tadamune ( 伊達忠宗: the second Daimyo/lord of Sendal district after his father Masamune). Tadamune’s firstborn son deceased early so Mitsumune was destined to be the heir presumptive after Tadamune at the age of three. Despite his predetermined destiny, he died of an illness when he was 19 years old.       His father Tadamune mourned the death and built a mausoleum in 1646 and Entsu-in temple embracing the mausoleum and a function served only to Mitsumune  in 1647; Entsu-in temple itself can be referred as a grand graveyard only for Mitsumune.   Mausoleum/Sankei-den      The ma

円通院(宮城県松島)

円通院は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗の寺院です。 19 歳でこの世を去った伊達政宗の嫡孫・伊達光宗の菩提を弔うために、政宗の菩提を弔う 瑞巌寺 の第 100 代当主が、境内に隣接する場所に設立しました( 1647 年)。 瑞巌寺参詣者の多くが立ち寄るほか、秋には紅葉の名所として観光客が訪れる名刹でもあります。   伊達光宗 光宗は、政宗の後を継いだ第 2 代仙台藩主・伊達忠宗と正室・振姫の次男として 1627 年に生まれ、長男の夭折を受け、 3 歳で伊達家の世継ぎとなりました。 初代・政宗の孫、かつ 2 代藩主と正室の子であり、さらにその母の従兄弟にあたるのが徳川幕府 3 代将軍・徳川家光であったことから、血筋の上で光宗は伊達家世子として申し分なく、仙台藩の次代藩主としての地位が確実視されていました。しかし、 1645 年、光宗 19 歳の時、病を得て江戸で帰らぬ人になりました。 仙台藩では光宗の死を悼み、 1646 年にその御霊を祭る霊廟・三慧殿が建立され、翌 1647 年にその霊廟を頂く光宗の菩提寺として円通院が開山されました。   三慧殿 光宗の霊廟として建立された三慧殿には、黄金の輝きを放つ金箔の上に、繊細かつ彩色豊かな装飾の数々が施されています。父・忠宗が若年の嫡子を失った悲しみを拭い去り、愛する子供の冥福を強く祈るかのように、きわめて豪奢に作ったともいわれています。 ただ、これだけ豪奢に作られた霊廟も、建立当初から約 350 年の長きに亘り秘匿され、人の目に触れないようにされてきました。 円通院のガイドによると、その理由は霊廟内に設置された御霊舎の装飾としてあしらわれているバラ、水仙といった西洋由来の花や西洋文化から影響を受けたダイヤやハート、スペードといった文様にあるとのこと。 これらは、政宗存命中に命を受け、使節団として欧州へ渡航した伊達家の家老・支倉常長(はせくら つねなが)が帰国後に持ち帰ったものであり、特にバラはローマ、水仙はイタリアのフィレンツェと、常長が訪れた場所を示唆しているといわれています。 常長は、渡航先でキリシタンとして洗礼を受けましたが、帰国したときには江戸幕府の意向により「キリシタン禁止令」が敷かれていました。彼は、帰国して 2 年後に 失意の中 亡くなっています。 も

Zuigan-ji temple(瑞巌寺), Miyagi, Japan

Zuigan-Ji temple(瑞巌寺) is a Rinzai-sect.(臨済宗) Buddhist temple in Matsushima, Miyagi, Japan. (This article originates in a previous one in Japanese. You can refer to this link .)      Originally, this temple started as a temple of Tendai-sect.(天台宗), a Buddhist group with a different dogma (let ’ s say, similar to differences between Catholic and Protestant in Christianity), but it was renewed to the Rinzai-sect. by Kamakura Shogunate in Kamakura era and then renovated by Date Masamune (伊達政宗) , the first samurai lord or “ Daimyo ”(大名) of Sendai district in Edo period. The temple ’ s main hall which has Masamune ’ s mortuary tablet within was built by his own order and has been preserved for generations: the hall with its grand kitchen inside has been a national treasure of Japan since 1953, given its background history and proper preservation. The imperial court and Samurai      Zuigan-ji temple ’ s history goes in line with political shift between the imperial court and Samurai Shogu

Shimabara, a historical site showing old Geisha culture

Kyoto has several places where Geishas (芸者) get together and serve. Currently, Gion (祇園) located in Higashiyama is famous: many foreign tourists crowded before the Pandemic. In history, there was a more gorgeous high-class place known as Shimabara (島原) where the Geishas were required to be beautiful and well-educated to welcome guest with high social status and money; Shimabara wasn ’ t only a Geisha quarter but also a luxury salon as a place of flourishing culture and literature. Brief history Shimabara, formally named as “Nishi Shin-yashiki (西新屋敷) ”, originates in Nijo Shin-machi (二条新町) to which Toyotomi Hideyoshi ( 豊臣秀吉 ) gave an official license as a brothel town in 1589. It was moved to Rokujo Misuji-machi (六条三筋町) in early Edo period and finally settled in the current place in 1641. Shimabara had a staffing service for Geisha: Geishas usually settled in dormitories (Oki-ya/ 置屋 ) and commuted to restaurants/salons ( Age-ya/ 揚屋) to serve guests over meals upon requests from the

角屋(すみや)、京都島原に残る花街の面影

桃山時代から江戸時代にかけて、栄華を誇った京都の花街、島原。 (前回の記事は こちら ) 現在は住宅地となっているその一角に、島原の文化を後世に伝えていくことを目的として、当時の揚屋である「角屋」の建築がそのまま保存されています。有料ですが、ガイドさんの説明付きで内部を見学することができます。 島原では、花魁や太夫の生活の場としての「置屋」と仕事場である「揚屋」(料亭)が別になっており、彼女たちは仕事の都度、置屋から揚屋へ出勤していたようです。その揚屋の中でも、この角屋は格式が特に高く、内部のしつらえも大規模な寺院や武家屋敷と同格の調度品を使用しています。ガイドさんによると、角屋が接待する客は、要人から富裕層などそれなりに地位を有する者に限られており、いわゆる「一見さんお断り」が根付いていたようです。 施設内で見学できるのは、併設されている展示室のほか、 1 階にある台所、座敷 2 室と中庭、そして2階部分です。1階は主に料亭として裏方(台所と帳場)、そして客をあしらう宴の場に分かれており、一方2階は客と花魁や太夫たちが交流を深める場となっているようです。今回は予約せずに伺ったので、見学できたのは1階部分のみ。2階の見学は完全予約制( + 別料金)となっているため、今回は断念いたしました。   防災と防犯 料亭というだけあって台所はとても広く、かまどは全部で 7 つほど。かまどがすべて稼働すると、目の前が見えなくなるくらいあたりは煙が充満するため、天井屋根に換気窓が複数設置されています。また、火災時の用水用井戸を細かく設けることはもちろん、延焼しないようにあえて建物を打ち壊す長刀が常備されているなど、台所が火の元になり得ることに配慮された仕掛けが至る所にみられます。 防犯の観点では、当時は武士をもてなすことが多かったため、酔った勢いで店内が修羅場にならないよう、正面玄関で刀を預けるルールとなっていたようです、その名残として、玄関には傘ならぬ「刀の置き場」、特に上級武士専門の「刀箪笥」が残っています。 玄関の軒先にある柱には新選組による刀傷が残っていますが、同じような傷が店内にはいっさいに残っていないことからも、幕末の動乱にあっても店内では殺傷に発展しないよう店側が気を張っていたことが伺えます。   座敷 客