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豊国神社(宮島)



豊国神社は、死後に「豊国大明神」と神格化した豊臣秀吉の御霊を祭る神社のことで、京都や大阪など、秀吉ゆかりの場所に建立されています。

広島県の宮島にも、「千畳敷」として有名な豊国神社が存在します。祭神は、もちろん秀吉=豊国大明神です。


元・仏閣
豊国神社は、もともとは神社ではありません。その起源は、1587年に秀吉が戦没者慰霊のための納経所として発願したことに遡ります。秀吉は、安芸を治めていた毛利輝元に納経所の建設を命じ、毛利家配下の僧侶・安国寺恵瓊が建設の現場監督を務めたとされています。

ただ、建設途中に秀吉が亡くなり、工事が中断されたため、壁や天井の装飾が未完成のまま、今日まで至っています。

神社でも、秀吉の御霊を祭る場所でもないこの仏閣は、のちに明治の廃仏毀釈を受けて内部の仏像類をすべて別の場所に移し、1872年に豊国大明神を祭る神社(厳島神社の末社)として再出発しています。


だだっ広い千畳敷


内部は、「千畳敷」という俗称の由来となった畳857枚分に及ぶ面積を誇る、黒色の板張が床面いっぱいに広がっており、その黒さ?と広さに圧倒されます。

なぜでしょう、こういう広い空間にいると、必ずハイテンションで駆け回る子供が複数出現するのは・・・(笑)。小さな子供たちがはしゃいで走り回り、それを制するために声を挙げたり、子供の後ろを駆け回るご両親の姿があちらこちらで・・・。
日本の家は狭いから、こんなに広いと駆け回りたくなる気持ちはよくわかります。

さらによくわかるのは、大の字になって昼寝?する大人たちの気持ち。
特に身長が高く、大抵のベッドや布団では足先がはみ出てしまう体型のわたくし、そんな大人たちに交じって、大の字で寝転がっていましたとも。

この板張を含めた本殿自体が、国指定の重要文化財となっているようです。

重要文化財の中で昼寝、、、最高です(笑)。
宮島の隠れパワースポット(謎)。

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