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ありがとう25,000回(小林正観さんの教え)

ありがとう25,000回。

小林正観さんが著書などで紹介されていて有名ですが、「ありがとう」という言葉を25,000回唱えると、涙があふれてきて、人生が「すべてがうまくいく奇跡モード」に変化していくらしいのです。

病気が治るとか、思い通りのことが起きたとか、体験談は数知れません。

 

「ありがとう」を25,000回、一気に言おうとすると、早口の方でも4時間以上は必要です。
累積で25,000回に到達すればよいので、例えば一回に10分ごと、数日に分ける形でもよいとのこと。

 

ただし、不平不満、怒りや愚痴などのマイナスの言葉を一度でも口にしてしまうと、カウンターはゼロ。1回目からやり直すというルールです。
24,999回目に、マイナスな言葉を口にしたら、なんと24,999回がゼロに戻り、1回目からやり直し。。。)

これには救済措置があって、マイナスな言葉を言った後、10秒以内に「今のは無しです。」と言葉にすれば、ゼロには戻らないようです。

 

 

これぞと思ったら猪突猛進なB型男( ´艸`)、さっそくやってみました。

もともと、神様の祝詞を20万回くらい3か月かけて唱えるという、謎の修行を経験した身からすれば、25,000回というボリューム自体にそれほど抵抗はありませんでした。

ただ、やはり出てくる「マイナスな言葉」。
仕事でのイライラなどが無意識に口に出て、救済を失敗した(10秒以内に打ち消せなかった)ことが数回あり、何度かやり直ししながらの挑戦でした。

それでも、何とか救済措置に支えられながら、25,000回を2日に分けてようやく達成。
(しかも、マイナスな言葉が出やすい仕事のない休日を活用!)


達成後の心境
25,000回達成後、書籍にあるような「涙が出る」ようなことはなかったのですが、物事のとらえ方というか考え方が以前とは大きく異なっていることに気が付きました。

正確には10,000回を超えたあたりから、徐々にですが、以下のような変化を感じ取りました。

  • マイナスの言葉を言う頻度が極端に減った。言わない、もしくはポジティブな言葉へ変換して表現する習慣が身についてきた。
  • マイナスの言葉を言っても、必要以上に恐れたり否定したりせず、「そんな毒を吐く自分も大切な存在。許そう、愛そう」と思えるようになった。
  • 一見ネガティブな出来事に対しても、「そんなこともあるよね」と許容する魂の器量が大きくなった(気がする)。
  • さらには、そもそも起きた出来事に対して善悪を判断しないようになってきた。また、ジャッジしたときも、自分で気づいて考えを修正できるようになっている。
    (物事に善悪があるわけではなくて、自分の都合でジャッジしているだけである)

魂の器量を広げるとか、善悪をジャッジしないというのは、自分自身が望んでいたけれど、なかなか到達できない悟りの境地のようなものでした。
というのも、自分なりの正義感が善悪のジャッジを生み出し、洗濯しても取れないシミのように長年邪魔をしていたのです。

ところが、「
ありがとう25,000回」がまるでオキシクリーンのように働いてくれたおかげなのか、徐々にそのシミが薄くなってきているように思います。

もしかすると、「ありがとう25,000回」の功徳というのは、その人にとって最善のものを手に入れることができることなのかもしれません。

 

正観さんのことは亡くなられた後に知ったのですが、「ありがとう」という言葉を大切にされている教えについては、人伝いに聞いていました。

正観さんの書籍については、何を読めばいいのかわからないくらいたくさんあるのですが、亡くなった後に親族の方が「ベストメッセージ集」として以下3冊の本を発表されています。

「ありがとうの神様」
「ありがとうの魔法」
「ありがとうの奇跡」

この3冊には正観さんの教えがギュッと詰まっているのですが、とても柔らかい表現で、決して内容を押し付けることもないので、スピリチュアル系の内容に苦手な方も手に取りやすいのではないかと思います。

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