比治山神社は、広島市南区の比治山公園内に存在する神社です。
もともとは、比治山の南にある「黄幡谷」に鎮座していた神社でしたが、1646年に真言宗勝楽寺の境内へ、その後寛文年間(1661-1673年)に現在地に移りました。
しばらくは神仏混合の産土神として近隣住民に信仰されていましたが、明治の神仏分離の際に、勝楽寺を廃して「比治山神社」としての道を歩みました。
祭神の不思議
当社では、オオクニヌシ、スクナヒコ、イチキシマヒメ、スサノオ、そして車折大明神の5柱の神々が、同じ本殿に祭られているのですが、この神々のチョイスに面白みを感じる神社マニアのわたくし。
広島ということで、厳島神社の神様であるイチキシマヒメを祭るのは理解できます。
また、島根と陸続きであることなどから、出雲地方にゆかりのあるオオクニヌシ、スクナヒコ、スサノオが合祀されているのも感慨深い。
さらに、神話上、皇祖アマテラスの娘であるイチキシマヒメの誕生には、アマテラスの末弟・スサノオが深くかかわっていることから、天津神(アマテラス系)と国津神(オオクニヌシ/スサノオ系)の融合に深く感じ入る神社でもあります。
謎なのは、車折(くるまざき)大明神。
京都市右京区の車折神社に鎮座する神様で、もとは平安時代の貴族である清原頼業(きよはらのよりなり)を死後、神格化したものとされています。
儒学を修めた学識によって朝廷を支えた賢人として有名な頼業ですが、清原氏の領地のあった京都に祭られるのはよいとして、なぜ広島におられるのだろうか。。。
少し調べてみると、頼業の役職にヒントが隠されていました。
彼が朝廷から任命されたのは、「直講兼周防介」。
直講とは、平安時代における大学教授、兼務している周防介は周防国の知事?のようなものと解釈できます。
周防国は、現在でいう山口県防府市あたりの地域を指し、戦国時代は現在の広島市も含めて毛利家による支配を受けていました。
その流れから、比治山神社には頼業が合祀されているのかもしれません。
1945年8月6日
広島市のほとんどは、この日に投下された原子爆弾によって破壊されました。
比治山神社も、例外ではありません。
これが、これまで広島の神社を訪ねることに個人的に躊躇していたところでもあります。
毛利家の庇護のもとで栄えた由緒ある寺社仏閣も、この日にすべて破壊されたのだと思うと、言葉にならない思いがこみ上げてきます。
比治山神社は、戦後しばらくは社殿もない状態が続きましたが、終戦から9年後の1954年に再建され、現在に至っています。
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