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7月, 2017の投稿を表示しています

宗像大社と世界遺産

前回、 宗像大社のあらまし についてまとめました。 北部九州に住む人の多くは、宗像大社の交通安全祈願祭を受けた経験があると思います。 私も、免許取得後の初ドライブ先は宗像大社でした。当時はバックでの駐車も進路変更もうまくできず、助手席に座っていた父親の叱咤激励を受けながら何とかたどり着いた記憶があります(涙)。 さて、宗像大社と沖ノ島、ならびに関連遺跡群は今年、ユネスコの世界文化遺産に認定されました。日本では、22例目の世界遺産です。(文化遺産18例、自然遺産4例) 各種報道の通り、認定されるまでに紆余曲折を経ました。そこで、ユネスコが公開している審査書類を紐解き、その経緯を追いたいと思います。 ユネスコ世界遺産 はじめに、「ユネスコ世界遺産」について整理します。観光産業の呼び水のようなイメージをもたれがちですが、本来の目的は、人類にとって後世に残すべき価値を「保全」することにあります。 従って、認定後もどのように史跡を保全しているのかも厳しくチェックされ、不十分であれば、登録抹消となる可能性もあります。 認定に際して、ユネスコの各加盟国が推薦する候補について専門機関が調査・検討した結果に基づき、毎年開催される世界遺産会議にて協議にかけられます。 この中で、10か条にわたる「世界遺産登録基準」のいずれかに適していると判断されれば、晴れて世界遺産として認定されます。 正式名称:『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群 今回は、沖ノ島(鳥居の役目を果たす周辺岩礁を含む)と沖津宮、大島の中津宮、御嶽山、沖津宮遥拝所、九州本土の辺津宮(宗像市)や、地方豪族・宗像氏の歴代首長を埋葬している新原・奴山古墳(福津市)という複数の史跡を総合した形で、世界遺産に登録されました。 しかし、当初ユネスコ側は、沖ノ島のみ世界遺産にふさわしく、それ以外の史跡はあくまで日本でのみ価値が認められるため、世界遺産には含めるべきではないと判断をしていました。 沖ノ島の文化的価値 世界遺産会議の諮問機関ICOMOSは、以下の理由から沖ノ島の文化的価値を認めています。 10万点に及ぶ出土品や島内の祭祀跡により、4~9世紀にかけて沖ノ島が航海安全を祈る宗教的祭祀の場であったことが認められること。 出土品には、中国・朝鮮、中央アジアのものも

Yasaka Jinja shrine (八坂神社)

Yasaka-Jinja Shrine is located in Gion district in Kyoto city, where you can see many Geisha walking in a traditional kimono.  This is a headquarter of the whole "Yasaka" shrines throughout Japan. The shrine officially says in its website that the shrine's religious service can be dated back to 656 AD when a commissionaire called "Iri-shi"(伊利之)from Korea(高麗) established a building for the deity who he had worshiped in a place where is now in a part of Kyoto city. Then, it moved to the current venue. You may ask why Korean. The reason can be found in a myth written in the Nihon-shoki  (the oldest chronicles of Japan). In the story, the shrine's main deity "Susa-no-oh"(素戔嗚尊) was expelled from the heaven governed by his sister Amaterasu (the great ancestor of the Emperor) down to the earth after he did many brutal things (defined as "sins of the heaven deities"/天つ罪). In the story, he came down firstly to a part of Silla(新羅:one of t

祇園祭

京都の夏の風物詩といえば、祇園祭です。 祇園祭は、京都市の東にある八坂神社(祇園社)の例大祭であり、山鉾巡行の雄大な光景は有名です。 しかし、祇園祭の本質は、山鉾が通った後に八坂神社の「ご神体」がおみこしに乗って市中を移動することにあります。山鉾は、メインに添える「華」の役割であることについては、結構知られていないようです。 そんなわけで、祇園祭とは何ぞや、ということに迫りたいと思います。 祇園祭=悪霊退散の会 日本の宗教観のひとつに、「御霊信仰」というものがあります。天変地異や疫病などの厄災は、世や人を恨み非業の死を遂げた方の霊魂や祟り神が引き起こすものだから、これらの御霊を丁重にもてなし、慰めることで災いを防ごうとする信仰です。 祇園祭は、その昔疫病が大流行したとき、当時「祇園社」と呼ばれていた八坂神社が「御霊会」(ごりょうえ)という鎮魂の祭典を催したことが起源とされています。 八坂神社に鎮座する神様は3柱おり、その中心が皇祖アマテラスの末弟「スサノオ」です。記紀の前半部分において、スサノオは非常に猛々しく、粗暴な神様として描かれており、スサノオによる数々の狼藉に失望したアマテラスが、ボイコットして洞窟の中に引きこもる「天岩戸神話」は有名です。 こうした性格から、スサノオは 神仏習合の時代にはインドの荒ぶる神「牛頭天王」と同一視されました。 医学が発展していない当時の京都では、夏は蒸し暑く疫病が発生しやすい上に、賀茂川はよく氾濫し、人々を悩ませ続けていました。自分たちではどうにもできないこれらの現象について、人々は荒神・牛頭天王=「猛々しいスサノオの御霊」に理由を求め、盛大なお祭りによってその御霊を慰撫し災いを避けることが大切だったのだと思います。 山鉾と柱 山鉾は、869年の御霊会で当時日本国内にあった国の数にちなみ、高さ6メートルの鉾を66本立てたことがルーツとされています。御霊会が毎年開催されるようになった970年以降、山鉾の数は増え、装飾も豪華絢爛なものへと発展していきます。15世紀中頃には、全58基の山鉾が現代と同様の姿で巡行していたとの記録もあります。 山鉾 しかし、その後は応仁の乱(1467-1477年)や、江戸時代の2度に亘る大火事、幕末の混乱期にあって山鉾は甚大な被害を受けますが、その都度町

Hokkaido Jingu Shrine(北海道神宮)

Name plate "Hokkaido Jingu" Hokkaido, the northern island in Japan's archipelago, is a now famous place for sightseeing; tasty foods, great nature, and so on. Especially, winter-sports lovers may enjoy skiing/snowboarding in winter. Thinking of its history, Hokkaido used to be a different nation; it was an Ainus land.  However, the Emperor Mutsuhito (The Meiji Emperor) sent commissioners to develop the land. Interestingly, he used sort of a "religious" power to protect  his land or its sovereignty in the island by building a Shinto shrine. The shrine is now called "Hokkaido Jingu"(北海道神宮). Background Shintoism became a nation-controlled religion, of which religious leader or "the living deity" (ie. the Dalai Lama for Buddhism, the Pope for Christianity) was the Emperor after the imperial court regained its political supremacy from Samurai (Tokugawa Shogunate) for the first time in the past 1,000 years.  Shinto Shrines were subsidiz

宗像大社(祝・ユネスコ世界遺産登録)

福岡県宗像市にある、交通安全の神様として有名な神社で、そのご祭神は、皇祖・アマテラスの娘であり、「宗像三女神」と呼ばれる三姉妹です。 三女神の長女「タゴリヒメ」は玄界灘に浮かぶ絶海の孤島「沖ノ島」にある「沖津宮(おきつぐう)」、次女「タギツヒメ」は同じく玄界灘に浮かぶ島で、より九州本土に近いところにある「大島」の「中津宮(なかつぐう)」、三女「イチキシマヒメ」は、宗像市の田園地帯にある総本社「辺津宮(へつぐう)」にそれぞれ鎮座しており、都合、3つの地域に別々に存在するこれらの神殿を総称して、「宗像大社」といわれています。  先ごろ、これら宗像大社と関連する古墳群がユネスコ世界遺産に登録されました。 さて、宗像大社の3つのお宮を線で結ぶと、九州から玄界灘、そして朝鮮半島へと続いていきます。 古代において北部九州は、朝鮮をはじめとした外国との玄関口であり、同時に国土防衛の最前線でもありました。記紀(古事記と日本書紀の略称)によれば、母親であるアマテラスから、外国に開けるこの地を守り、天皇家の国土統治を助けるように指示を受け、宗像三女神は宗像の地に降臨した、とあります。 沖ノ島は朝鮮への航路の中継地点に存在しており、古代から土器などを使用して祭祀を行った形跡が複数確認されています。島内で発見された10万点に及ぶ宝物のうち、なんと8万点が国宝に指定されていることから、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれるほどです。 こんな宝物がたくさん存在する理由の一つとして、朝鮮・中国の文化を取り入れたい大和政権が、優れた航海技術を有する地方豪族・宗像氏を優遇し、また外国文化を日本にもたらしてくれる船の安全のために、惜しみなく宝物を宗像三女神に捧げた、ということが挙げられます。事実、朝廷からは、九州にある神社の中で、唯一「神郡」(神社所有の土地)を持つことを許されるほどでした。宗像氏は、代々宗像大社の大宮司を勤める名家でしたが、権力争いに翻弄されて衰退し、今は断絶しています。 また、こうした宗像大社の起源や祭祀もあり、三女神は古代より航海安全の神様として認知され、神様としては位の高い部類にある「貴(むち)」という敬称を用いて、「道主貫(みちぬしのむち:道に関する最高神)」とよばれ、いまでは海上だけでなく、陸上交通における安全の神様として広く認識されています。 宗像