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祇園祭

京都の夏の風物詩といえば、祇園祭です。

祇園祭は、京都市の東にある八坂神社(祇園社)の例大祭であり、山鉾巡行の雄大な光景は有名です。
しかし、祇園祭の本質は、山鉾が通った後に八坂神社の「ご神体」がおみこしに乗って市中を移動することにあります。山鉾は、メインに添える「華」の役割であることについては、結構知られていないようです。

そんなわけで、祇園祭とは何ぞや、ということに迫りたいと思います。

祇園祭=悪霊退散の会
日本の宗教観のひとつに、「御霊信仰」というものがあります。天変地異や疫病などの厄災は、世や人を恨み非業の死を遂げた方の霊魂や祟り神が引き起こすものだから、これらの御霊を丁重にもてなし、慰めることで災いを防ごうとする信仰です。

祇園祭は、その昔疫病が大流行したとき、当時「祇園社」と呼ばれていた八坂神社が「御霊会」(ごりょうえ)という鎮魂の祭典を催したことが起源とされています。

八坂神社に鎮座する神様は3柱おり、その中心が皇祖アマテラスの末弟「スサノオ」です。記紀の前半部分において、スサノオは非常に猛々しく、粗暴な神様として描かれており、スサノオによる数々の狼藉に失望したアマテラスが、ボイコットして洞窟の中に引きこもる「天岩戸神話」は有名です。
こうした性格から、スサノオは 神仏習合の時代にはインドの荒ぶる神「牛頭天王」と同一視されました。

医学が発展していない当時の京都では、夏は蒸し暑く疫病が発生しやすい上に、賀茂川はよく氾濫し、人々を悩ませ続けていました。自分たちではどうにもできないこれらの現象について、人々は荒神・牛頭天王=「猛々しいスサノオの御霊」に理由を求め、盛大なお祭りによってその御霊を慰撫し災いを避けることが大切だったのだと思います。

山鉾と柱
山鉾は、869年の御霊会で当時日本国内にあった国の数にちなみ、高さ6メートルの鉾を66本立てたことがルーツとされています。御霊会が毎年開催されるようになった970年以降、山鉾の数は増え、装飾も豪華絢爛なものへと発展していきます。15世紀中頃には、全58基の山鉾が現代と同様の姿で巡行していたとの記録もあります。

山鉾
しかし、その後は応仁の乱(1467-1477年)や、江戸時代の2度に亘る大火事、幕末の混乱期にあって山鉾は甚大な被害を受けますが、その都度町衆が力を合わせ、復興するという破壊と再生を繰り返しながら、現代につながっていくのです。

山鉾には色々な種類があり、たとえば「下京区 四条通東洞院西入ル」付近に住む人々は「長刀鉾」、 「中京区 新町通三条下ル」地区は「八幡山」というふうに、「山鉾町」と呼ばれる町ごとの住民グループが受け持ちの山鉾をそれぞれ管理・運営しています。

山鉾は大きいもので最大12トン、高さ25メートルに達し、組立~巡航、解体までに約180名もの人手を要するとのこと。なぜこんなに大きいのかというと、神道には「柱」という概念が根底にあるからだと考えられます。

神様を数える単位「柱(ちゅう)」、長野・諏訪大社の「御柱祭」、家族を支える稼ぎ頭のことを「大黒柱」と呼ぶなど、大切な何かを「柱」に見立てる例は多数見られます。神社の「ご神木」も一種の「柱」であり、一説よると、「柱」は天上の神様と地上の人間をつなぐ橋のような意味合いがあるのだとか。祇園祭の山鉾もこうした「柱」に見立て、より神様と繋がりたい人々の願いに応じて、大きくなっていったのかもしれません。

神輿渡御(しんよとぎょ)
今でこそ祇園祭の名物である山鉾巡行は、メインの「神輿渡御」を祝うためのサブイベントです。

神輿とは、いわゆる「おみこし」のことです。3柱おられる八坂神社のご神体を3基の神輿にそれぞれ乗せて、山鉾が巡行する7月17日の夕刻に本殿を出御(しゅつぎょ)され、7晩かけて市中を渡御(とぎょ)されます。これを「神幸祭」と呼びます。

1週間後の7月24日、馬に乗ったお稚児さんを先頭とした行列に導かれ、ご神体が本殿に還御(かんぎょ)されます。これを「還幸祭」と呼びます。この「還幸祭」によって、祇園祭の全ての次第が終了します。

 「神幸」「還幸」と「幸」という漢字が使われるのは、神輿渡御によって普段は本殿の奥におられる神様を間近に見られるという人々の「幸せ」を意味しているからといわれています。

なお、「還幸祭」の先頭を行くお稚児さんは、毎年京都市中の名家のお坊ちゃんが選ばれます。お稚児さんを輩出した家は末代まで栄えるとも言われることから、そのご家族は「選ばれた名誉」へのお礼として、1千万円単位の奉賛(神社への寄付)をなさるそうです。
さすがは、千年の都・京都です。。。

ちまき
祇園祭では、「ちまき」が配布されます。これは、食べるちまきではなくて、「茅を巻いたもの」という意味の「茅巻=ちまき」です。その由来は、記紀に描かれています。

ちまきを角帯に挿して…
天岩戸事件後、スサノオは神様の世界を追放され、地上に降り立ちます。行くあてもないため、取り敢えず裕福な住民たちに宿を求めるも、ことごとく断られてしまいます。しかし、最後に声をかけた「蘇民将来」という男は、お世辞にも裕福とは言えない暮らしぶりでしたが、精一杯スサノオをもてなしました。これに感激したスサノオは自らの素性を明かして、茅の輪を授けて「疫病が流行した時に、この茅の輪を腰につけると免れる。」と教えたのです。
蘇民将来とその家族は、言われた通りにしたことで、その後発生した疫病から身を守ることができました。

この神話にあやかり、スサノオを慰撫する祇園祭にて、「われこそは蘇民将来の子孫なり」と書かれた護符つきのちまきを厄除けとしていただく、という信仰に発展していきました。


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