福岡県宗像市にある、交通安全の神様として有名な神社で、そのご祭神は、皇祖・アマテラスの娘であり、「宗像三女神」と呼ばれる三姉妹です。
三女神の長女「タゴリヒメ」は玄界灘に浮かぶ絶海の孤島「沖ノ島」にある「沖津宮(おきつぐう)」、次女「タギツヒメ」は同じく玄界灘に浮かぶ島で、より九州本土に近いところにある「大島」の「中津宮(なかつぐう)」、三女「イチキシマヒメ」は、宗像市の田園地帯にある総本社「辺津宮(へつぐう)」にそれぞれ鎮座しており、都合、3つの地域に別々に存在するこれらの神殿を総称して、「宗像大社」といわれています。
先ごろ、これら宗像大社と関連する古墳群がユネスコ世界遺産に登録されました。
さて、宗像大社の3つのお宮を線で結ぶと、九州から玄界灘、そして朝鮮半島へと続いていきます。
古代において北部九州は、朝鮮をはじめとした外国との玄関口であり、同時に国土防衛の最前線でもありました。記紀(古事記と日本書紀の略称)によれば、母親であるアマテラスから、外国に開けるこの地を守り、天皇家の国土統治を助けるように指示を受け、宗像三女神は宗像の地に降臨した、とあります。
沖ノ島は朝鮮への航路の中継地点に存在しており、古代から土器などを使用して祭祀を行った形跡が複数確認されています。島内で発見された10万点に及ぶ宝物のうち、なんと8万点が国宝に指定されていることから、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれるほどです。
こんな宝物がたくさん存在する理由の一つとして、朝鮮・中国の文化を取り入れたい大和政権が、優れた航海技術を有する地方豪族・宗像氏を優遇し、また外国文化を日本にもたらしてくれる船の安全のために、惜しみなく宝物を宗像三女神に捧げた、ということが挙げられます。事実、朝廷からは、九州にある神社の中で、唯一「神郡」(神社所有の土地)を持つことを許されるほどでした。宗像氏は、代々宗像大社の大宮司を勤める名家でしたが、権力争いに翻弄されて衰退し、今は断絶しています。
また、こうした宗像大社の起源や祭祀もあり、三女神は古代より航海安全の神様として認知され、神様としては位の高い部類にある「貴(むち)」という敬称を用いて、「道主貫(みちぬしのむち:道に関する最高神)」とよばれ、いまでは海上だけでなく、陸上交通における安全の神様として広く認識されています。
宗像大社の祭祀
宗像大社での祭祀は、現代でもとても厳格に行われています。
長女神が鎮座する「沖ノ島」は、島自体がご神体とされており、総社・辺津宮の神職が10日間交代で島内奥地にある「沖津宮」にて、神様に奉職されるようです。一般人の入島は厳しく制限され、女人禁制の上、男性でも厳選な審査を経て、限られた日(毎年5月27日)にしか立ち入ることが出来ません。
次女神の鎮座する「中津宮」がある「大島」へは、本土とのフェリー定期便があり、誰でも参拝可能です。中津宮の神職は、2年交代で総社から派遣されますが、巫女さんは大島出身の女性に限られるとのこと。ただ、大島も例に漏れず、少子化・過疎化に悩まされ、巫女のなり手も不足しているようです。
沖津宮の遥拝所(水平線の彼方に見える沖ノ島を遠くから拝む拝殿)も大島にあり、女性はこの遥拝所からでしか、沖津宮を拝むことが出来ません。
全国に6,000社ある「宗像神社」の総本宮であり、一般的に「宗像大社」と認識されているのが、宗像市田島にある辺津宮で、三女「イチキシマヒメ」が鎮座しています。ザ・田舎ともいえる田園地帯の中心に、壮大な杜に囲まれた社殿が聳え立つ様は、圧巻です。
イチキシマヒメの鎮まる本殿を「第一宮(ていいっくう)」とよび、そこから歩いて4-5分のところに、中津宮、沖津宮の別宮である「第二宮(ていにくう)」、「第三宮(ていさんくう)」が鎮座しています。都合、辺津宮だけ参拝しても、3社全てをめぐることが出来るように作られている設計です。
また、アマテラスの娘、というつながりから、伊勢の神宮とも深い関係があるようで、「第二宮」「第三宮」の社殿には、昭和48年に行われた第60回神宮式年遷宮のときに撤下された古材が使用されています(従って、見た目は撤下される前と同じ、伊勢式の神明造りです)。
さらに、辺津宮境内には、宗像三女神が初めて天上界から降り立った場所とされる「高宮(たかみや)」という場所があり、「沖ノ島」と並ぶ宗像大社の聖地として、今も祭礼が励行されています。高宮には目の前まで歩いていけるので、参拝時には足を伸ばしても良いかもしれません。
イチキシマヒメとは
古代の日本では、家督は末子に譲るというのが基本だったようで、初代天皇である神武天皇も、末っ子ながら天皇として即位しています。宗像三女神でも、末っ子の三女イチキシマヒメが「総本宮」の「第一宮」に祭られているところに、古代の「末子相続」の流れが感じられます。
このイチキシマヒメですが、仏教伝来に伴う神仏習合(外来の仏を日本固有の神様と同一とみなす、日本独特の宗教観のこと)により、インドの女神「サラスヴァティ」、いわゆる「弁財天」と同一視されました。このため、宗像大社は全国の弁天様の総本宮とも言われています。
また、広島の厳島神社でも宗像三女神が祭られており、宗像大社は朝鮮への海上経路を、厳島神社は瀬戸内海をそれぞれ守っています。海上交易を拡大させようとした平清盛が厳島を大切にしていたのは、こうした「海上交通の守り神」という三女神の性格に起因しているようです。
いずれにしても、三女神ははじめに宗像の地に降り立っていることや、「イチキシマ」が転じて「イツクシマ」となったといわれていることから、厳島の起源も宗像大社にあるとされています。
宗像大社と皇室
辺津宮の楼門の扉に、皇室の家紋である「十六菊花紋」が飾られています。
冒頭の起源伝説にもありましたが、宗像三女神は皇祖・アマテラスから皇統を守護するよう指示を受け、かわりに皇室から正しく祭られなさい、といわれました。この関係から、、宗像大社では皇室からきちんと勅許を受けて「十六菊花紋」使用しているのだとか。
なお、宗像大社には固有の神紋(ご神木である楢の木の葉と実を3つ、Y字型に配置した独特のデザイン)があり、菊花紋を「表」、楢の神紋を「裏」として、この二つを使い分けているそうです。
2014年に、辺津宮本殿は48年に一度の式年造替を終えました。伊勢の神宮での遷宮と同じように、ご神体を新宮に遷した後、天皇陛下から幣帛料を受領しており、また天皇陛下の叔父上である故・三笠宮殿下が私費で巨額の資金を拠出されていることも、「芳名録」に記録されています。一説では、伊勢の神宮を「表伊勢」と呼ぶなら、宗像大社を「裏伊勢」と呼ぶとも言われており、皇室とのつながりがとても強いことが良くわかります。
平成の大遷宮
辺津宮本殿の造替は終わりましたが、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮など、関連施設の造替を今後10年かけて行うとのことです。これら一連のイベントを宗像大社では「平成の大遷宮」と呼んでおり、宗像神話に基づく遺跡・神社がユネスコ世界遺産に登録されたこともあって、特に力を入れて造替を進めているようです。
宗像は、いまではアツい田舎町の一つです。
三女神の長女「タゴリヒメ」は玄界灘に浮かぶ絶海の孤島「沖ノ島」にある「沖津宮(おきつぐう)」、次女「タギツヒメ」は同じく玄界灘に浮かぶ島で、より九州本土に近いところにある「大島」の「中津宮(なかつぐう)」、三女「イチキシマヒメ」は、宗像市の田園地帯にある総本社「辺津宮(へつぐう)」にそれぞれ鎮座しており、都合、3つの地域に別々に存在するこれらの神殿を総称して、「宗像大社」といわれています。
先ごろ、これら宗像大社と関連する古墳群がユネスコ世界遺産に登録されました。
さて、宗像大社の3つのお宮を線で結ぶと、九州から玄界灘、そして朝鮮半島へと続いていきます。
古代において北部九州は、朝鮮をはじめとした外国との玄関口であり、同時に国土防衛の最前線でもありました。記紀(古事記と日本書紀の略称)によれば、母親であるアマテラスから、外国に開けるこの地を守り、天皇家の国土統治を助けるように指示を受け、宗像三女神は宗像の地に降臨した、とあります。
沖ノ島は朝鮮への航路の中継地点に存在しており、古代から土器などを使用して祭祀を行った形跡が複数確認されています。島内で発見された10万点に及ぶ宝物のうち、なんと8万点が国宝に指定されていることから、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれるほどです。
こんな宝物がたくさん存在する理由の一つとして、朝鮮・中国の文化を取り入れたい大和政権が、優れた航海技術を有する地方豪族・宗像氏を優遇し、また外国文化を日本にもたらしてくれる船の安全のために、惜しみなく宝物を宗像三女神に捧げた、ということが挙げられます。事実、朝廷からは、九州にある神社の中で、唯一「神郡」(神社所有の土地)を持つことを許されるほどでした。宗像氏は、代々宗像大社の大宮司を勤める名家でしたが、権力争いに翻弄されて衰退し、今は断絶しています。
また、こうした宗像大社の起源や祭祀もあり、三女神は古代より航海安全の神様として認知され、神様としては位の高い部類にある「貴(むち)」という敬称を用いて、「道主貫(みちぬしのむち:道に関する最高神)」とよばれ、いまでは海上だけでなく、陸上交通における安全の神様として広く認識されています。
宗像大社の祭祀
宗像大社での祭祀は、現代でもとても厳格に行われています。
長女神が鎮座する「沖ノ島」は、島自体がご神体とされており、総社・辺津宮の神職が10日間交代で島内奥地にある「沖津宮」にて、神様に奉職されるようです。一般人の入島は厳しく制限され、女人禁制の上、男性でも厳選な審査を経て、限られた日(毎年5月27日)にしか立ち入ることが出来ません。
次女神の鎮座する「中津宮」がある「大島」へは、本土とのフェリー定期便があり、誰でも参拝可能です。中津宮の神職は、2年交代で総社から派遣されますが、巫女さんは大島出身の女性に限られるとのこと。ただ、大島も例に漏れず、少子化・過疎化に悩まされ、巫女のなり手も不足しているようです。
沖津宮の遥拝所(水平線の彼方に見える沖ノ島を遠くから拝む拝殿)も大島にあり、女性はこの遥拝所からでしか、沖津宮を拝むことが出来ません。
全国に6,000社ある「宗像神社」の総本宮であり、一般的に「宗像大社」と認識されているのが、宗像市田島にある辺津宮で、三女「イチキシマヒメ」が鎮座しています。ザ・田舎ともいえる田園地帯の中心に、壮大な杜に囲まれた社殿が聳え立つ様は、圧巻です。
イチキシマヒメの鎮まる本殿を「第一宮(ていいっくう)」とよび、そこから歩いて4-5分のところに、中津宮、沖津宮の別宮である「第二宮(ていにくう)」、「第三宮(ていさんくう)」が鎮座しています。都合、辺津宮だけ参拝しても、3社全てをめぐることが出来るように作られている設計です。
また、アマテラスの娘、というつながりから、伊勢の神宮とも深い関係があるようで、「第二宮」「第三宮」の社殿には、昭和48年に行われた第60回神宮式年遷宮のときに撤下された古材が使用されています(従って、見た目は撤下される前と同じ、伊勢式の神明造りです)。
さらに、辺津宮境内には、宗像三女神が初めて天上界から降り立った場所とされる「高宮(たかみや)」という場所があり、「沖ノ島」と並ぶ宗像大社の聖地として、今も祭礼が励行されています。高宮には目の前まで歩いていけるので、参拝時には足を伸ばしても良いかもしれません。
イチキシマヒメとは
古代の日本では、家督は末子に譲るというのが基本だったようで、初代天皇である神武天皇も、末っ子ながら天皇として即位しています。宗像三女神でも、末っ子の三女イチキシマヒメが「総本宮」の「第一宮」に祭られているところに、古代の「末子相続」の流れが感じられます。
このイチキシマヒメですが、仏教伝来に伴う神仏習合(外来の仏を日本固有の神様と同一とみなす、日本独特の宗教観のこと)により、インドの女神「サラスヴァティ」、いわゆる「弁財天」と同一視されました。このため、宗像大社は全国の弁天様の総本宮とも言われています。
また、広島の厳島神社でも宗像三女神が祭られており、宗像大社は朝鮮への海上経路を、厳島神社は瀬戸内海をそれぞれ守っています。海上交易を拡大させようとした平清盛が厳島を大切にしていたのは、こうした「海上交通の守り神」という三女神の性格に起因しているようです。
いずれにしても、三女神ははじめに宗像の地に降り立っていることや、「イチキシマ」が転じて「イツクシマ」となったといわれていることから、厳島の起源も宗像大社にあるとされています。
宗像大社と皇室
辺津宮の楼門の扉に、皇室の家紋である「十六菊花紋」が飾られています。
冒頭の起源伝説にもありましたが、宗像三女神は皇祖・アマテラスから皇統を守護するよう指示を受け、かわりに皇室から正しく祭られなさい、といわれました。この関係から、、宗像大社では皇室からきちんと勅許を受けて「十六菊花紋」使用しているのだとか。
なお、宗像大社には固有の神紋(ご神木である楢の木の葉と実を3つ、Y字型に配置した独特のデザイン)があり、菊花紋を「表」、楢の神紋を「裏」として、この二つを使い分けているそうです。
2014年に、辺津宮本殿は48年に一度の式年造替を終えました。伊勢の神宮での遷宮と同じように、ご神体を新宮に遷した後、天皇陛下から幣帛料を受領しており、また天皇陛下の叔父上である故・三笠宮殿下が私費で巨額の資金を拠出されていることも、「芳名録」に記録されています。一説では、伊勢の神宮を「表伊勢」と呼ぶなら、宗像大社を「裏伊勢」と呼ぶとも言われており、皇室とのつながりがとても強いことが良くわかります。
平成の大遷宮
辺津宮本殿の造替は終わりましたが、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮など、関連施設の造替を今後10年かけて行うとのことです。これら一連のイベントを宗像大社では「平成の大遷宮」と呼んでおり、宗像神話に基づく遺跡・神社がユネスコ世界遺産に登録されたこともあって、特に力を入れて造替を進めているようです。
宗像は、いまではアツい田舎町の一つです。
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