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5月, 2019の投稿を表示しています

弥勒菩薩

仏教には、大日如来や薬師如来など様々な仏が存在しますが、その中でも 「仏陀」(ぶっだ)という存在は、全ての仏の頂点に立つ唯一無二の存在とされています。 (流派によって、異なる場合あり。) 仏陀は交代制の役職のようなもので、現在は「お釈迦様」(釈迦牟尼仏)が仏陀として存在しています。そして、その後継者とされているのが「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」です。弥勒は、 56 億 7000 万年後の未来で釈迦に代わって 仏陀となり、釈迦の時代に救いきれなかった人々を救う役目を担っています。 現在は兜率天(とそつてん)とよばれる別世界にいて、人類の一切の 辛苦を背負いながら、来るべき未来に備えて修行中であるとされています。 弥勒菩薩の姿 弥勒菩薩は、サンスクリット語で「マイトレーヤー ボッディサットヴァ」(慈悲の菩薩)と称されています。インドから中国に仏教が伝来する道中、中央アジアで信仰されていた「ミトラ神」と混合し、弥勒(ミトラの音写)と呼称されたマイトレーヤーが朝鮮半島、そして日本に伝わったと考えられています。 名前だけでなく、彫像などによる表現方法にも変遷があります。インド、中央アジアでは筋骨隆々のたくましい男性のように表現されていますが、中国以東になると男女とも区別がつかない中性的な表現が多くなります。 日本では、国宝彫刻の第一号である広隆寺の 半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名です。教科書や京都の観光ガイドなどで写真が多く掲載され、東大寺の大仏と並んで圧倒的な知名度を誇る仏像だと思われます。 広隆寺 広隆寺の弥勒菩薩像(※1) 広隆寺は京都市右京区太秦にある真言宗の寺院で、聖徳太子が建立にかかわった七寺院の一つです。聖徳太子より授けられた弥勒菩薩像を安置するため、渡来系である秦氏の族長・秦河勝(はたのかわかつ)が、西暦603年に一族の本拠地である太秦の地に建立したとされています。 現在、境内の講堂には阿弥陀如来像、上宮王院太子殿には聖徳太子が本尊として祀られ、弥勒菩薩像は「新霊宝館」にて、他の国宝・重要文化財級の仏像とともに展示されています。 渡来系の祈り 広隆寺の弥勒菩薩像には、いくつかの特徴がみられます。代表的なものは、以下の通り。 手の位置、足の組み方など全身のフォルムは、

神使(しんし)、神様のお使い

神道には、特定の動物を神の使者や眷属としてみなす考えがあります。これらの動物を「神使(しんし)」と呼び、春日大社や鹿島大社の鹿、稲荷神社の狐といった実在する動物の場合もあれば、眞名井神社の龍のように架空の存在を神使とする場合もあります。また、大抵の場合、関連する神を祭る神社の境内には、神使をかたどった彫像や絵画が安置されていたり、その動物が飼育されていたりします。 伊勢の神宮に関わりある皇祖アマテラスにも、神使がいます。 それは、毎朝鳴いて夜明けを知らせ、太陽をお迎えする鶏です。 神と神使の関係性は、概ね記紀などに書かれた神話や神社縁起に記されています。アマテラスと鶏の場合は、有名な天岩戸神話に描写があります。 天岩戸神話 妻・イザナミと死に別れた後、父イザナギから生れ出たアマテラス、ツキヨミ、スサノオの3姉弟は、それぞれ天界、月、海の統治を任されました。その後、天界にいるアマテラスのもとに末弟・スサノオがアマテラスのもとにやってきました。当初は、荒ぶる弟が攻め込んできたのだと思ったアマテラスでしたが、誓約を通じてスサノオに邪念はないことを確認します。 ところが、それに気を大きくしたスサノオは、あろうことか天界の田畑を荒らし、動物の皮を剥ぐなどの乱暴狼藉を重ねていきます。当初は、そんな弟を受け入れていたアマテラスでしたが、機織りの侍女が巻き込まれて死んでしまったのを見て狼狽し、世を憂いて岩戸の中に閉じこもります。 太陽の神であるアマテラスが身を隠したため、世界は暗闇に包まれました。困った八百万の神々は天安河原(アメノヤスガワラ)に集まり、アマテラスを岩戸から連れ出すための知恵を出し合いました。 そして、神々がまず初めに試してみたのが、毎朝夜明けとともに聞こえる「ナガナキドリ」の鳴き声によって、日の出と同じように太陽神・アマテラスを岩戸の外へお迎えしようというものでした。 結果的に、それだけでは岩戸が開かないことを悟った神々は、次の策としてアメノウズメに舞を舞わせ、中にいるアマテラスの注意を引き付けることにしました。神々の思惑通り、騒がしくなった外の様子を窺おうとアマテラスが岩戸を少しだけ開いた瞬間に、力自慢のアマノタヂカラオが岩戸が開ききったことで、世に光が戻ることとなります。 「ナガナキドリ」は、「長鳴鶏」。 夜明けと

ウィーン国立歌劇場

モーツァルト、ベートベン等を輩出した「音楽の都」ウィーンには、国立のオペラ座「ウィーン国立歌劇場」があります。 オペラ発祥の地・フィレンツェのある北部イタリアまで領土を広げたハプスブルク帝国が、帝都・ウィーン発のオペラ座として国の威信をかけて1869年に設立しました。 その後、ヴァーグナーやシュトラウスなどの音楽家を輩出し、かつ精力的な上演活動を通じて、本家イタリアをしのぐ人気を誇り、今日でも世界のオペラをリードする存在です。 また、専属の「ウィーン国立歌劇場管弦楽団」が、世界的なオーケストラである「ウィーンフィルハーモニー」の母体であることでも有名です。 娯楽と文化として 歌劇場では、オフシーズンの7-8月を除く10か月間、毎日日替わりで公演が開催されています。(オフシーズンには、上流階級たちの舞踏会・オープンバルなどが開催されます。) 歌劇場は民営ですが、政府のバックアップにより年間予算の半分が公的資金で賄われるためか、鑑賞料金が4ユーロ(500円ほど。立ち見席)~とリーズナブルなものに抑えられています。さらにパブリックビューイングによる無料公開も実施しているため、ウィーン市民が手軽に楽しめる娯楽となっています。 また、演者や舞台スタッフ、オーケストラメンバーは、歌劇場にフルタイム正社員として直接雇用されます。 正規の職業として生活の安定が図れることから、次世代のスターが育ちやすく、文化・技術の継承と世代交代もスムースに進む利点があります。 オペラ自体はドイツ語が中心ですが、座席に備え付けてある多言語対応タブレットによって、公演中いつでも解説を見ることができるため、ドイツ語に詳しくない観客でも楽しめるように工夫されています。 時代と文化の混在 第二次世界大戦では、空襲によりステージに爆弾が直撃し、衣装や脚本等も含め8割の施設・備品が損失しました。 一方、音響効果を意識して作られたステージの構造(※)のおかげで、ステージの反対側にある玄関部分を中心に、全体の2割は辛くも残存しました。 (※)マイクなしでも音が通るよう、空気が蓄積する構造のため、炎がステージ内にとどまった。 戦後は、別の劇場を仮の拠点としてゼロから再出発しました。その後、戦火を免れた設備を受け継ぎつつ

シュテファン大聖堂

シュテファン大聖堂は、カトリック教会におけるウィーン大司教区の司教座聖堂(ウィーン地区にある各カトリック教会を管轄する総本山)、かつ歴代のハプスブルク家当主の墓所でもあります。今やウィーンのシンボルとも言える存在ですが、記録によれば、 12 世紀から建設が開始されたとあります。 第二次世界大戦では、直接の爆撃は免れたものの、延焼によって損害を被りました。戦後、寄付などにより再建され、今日に至ります。 現在、外観は建設当初のゴシック様式を保っていますが、内部は繰り返し改築されてきた経緯から、後の時代で主流となったバロック様式が用いられ、同じ建物の内外で、長い歴史の変遷をみとることができます。 なお、大聖堂とその周辺地域は、「ウィーン歴史地区」と呼ばれ、2001年にユネスコの世界遺産に認定されています。 音楽と大聖堂 シュテファン大聖堂は、音楽と濃い繋がりがあります。 専属の聖歌隊 大聖堂での音楽会は、専属のオーケストラが担当しています。その指揮者である楽長(カペルマイスター)は、ウィーンの音楽界において高い地位が認められており、かのモーツァルトも、晩年に副楽長を務めています。 そのモーツァルトについても、もともと近所に住んでいたこともあり、夫人との結婚式と葬式がこの大聖堂で執り行われています。 近年では、2008年にサラ・ブライトマンがコンサートを開き、その模様をNHKが放送しています。 南塔 4つある大聖堂の塔のうち、建設開始からから65年を経て完成した地上 136.4mの 南塔は、教会建築の塔としては世界で三番目の高さを誇ります。有料ですがエレベーターに乗って展望階までのぼると、ウィーン市内を一望することができます 。 また、さまざま色のタイルでオーストリア・ハンガリー帝国の双頭の鷲、ウィーン市とオーストリアの紋章が屋根に描かれていることを確認することができます。

オーストリア国立図書館・プルンクサール

オーストリア国立図書館は、首都ウィーンのホーフブルグ王宮内にあり、国内最大となる740万点もの著作物を収蔵している図書館です。ラテン語の原典をドイツ語に翻訳した福音書やハプスブルク家ゆかりの書物などを収蔵していた中世の宮廷図書館を起源としており、国営となった現在でも、帝政時代からの施設と収蔵物を維持しています。 Der Prunksaal (The State Hall) 図書館施設の中で、ひときわ目立つのが「プルンクザール」と呼ばれるホールです。 1772 年、皇帝カール 6 世の発願により、バロック様式を用いて王宮内に建設された常設の図書館であり、修復を重ねながら、現在でも使用されています。 中に入ると、まず目を奪われるのが、天上いっぱいに描かれた色鮮やかなフレスコ画と壁面を覆いつくす蔵書とのコントラストです。 奥行80m、高さ20mの空間を取り囲むように収められているこれらの蔵書は、中世時代の約350年間(1501年~1850年)に記されたものであり、全部でおよそ約20万点にのぼります。内容によって、これらの蔵書は「war」と「peace」2つのカテゴリーに分けられ、天井のフレスコ画が示す通り、それぞれの書架に収められています。 (戦いを描くフレスコ画の方にはwar関連、反対側には平和のフレスコ画のもとにpeace関連の書物が収められています。) また、中央ドーム部天井には、創始者であるカール6世とハプスブルク家の繁栄について説明するフレスコ画が描かれています。 さらに、天窓から注ぎこむ日光が中央部に設置されているカール6世の石像を照らす姿も幻想的で、 一歩足を踏み入れると、異世界へワープしたかのような印象を受けます。 世界一美しい図書館とも言われるプルンクザール、ウィーンにお越しの際は立ち寄ってみてください。

Swing kids

韓国映画「スウィング キッズ」を鑑賞しました。 朝鮮戦争時、南北朝鮮それぞれの捕虜の収容所として実存した「巨済島(コジェ)」を舞台に、主人公である北朝鮮の捕虜の青年と収容所に配属された元・タップダンサーの米国軍人との交流を通じ、タップダンスに熱中していく様子を描く映画です。 この2人の関係性を軸に、南朝鮮(韓国)の人間として、戦火の中で妻子と生き別れてしまった男、両親を亡くし幼い兄弟抱えて必死に生きる少女、そして共産側として収容されている中国軍の捕虜の3人を加え、5人で構成されるダンスグループ「スウィング・キッズ」を結成し、収容所の体育館で開催されるクリスマスイベントに向け練習を重ねていく姿が全編を通じて描かれます。 しかし、物語が進むにつれて、この5人がそれぞれ抱える事情、ダンスをすることになった背景を通じて、この映画の舞台が「戦時下」にあり、かつ、その戦争が「同じ民族同士で殺しあう朝鮮戦争」であることが浮き彫りになっていきます。やがて、収容所内で起きる、南vs北、共産主義vs資本主義、白人vs黒人、朝鮮vs米国、、、といった様々な「二項対立」が、民族もイデオロギーも超え、ただ純粋にダンスに興じる5人を容赦なく巻き込んでいきます。 前半部分は、最初は見るに堪えなかった4人のダンスが、指導役の米国軍人とぶつかり合い、交流を通じて徐々に成長していく過程、中国人捕虜を中心としたくすっと笑えるコメディ要素、さらには北の青年と南の少女との恋模様も描かれており、一見すると若者の青春ストーリーという印象を受けます。 前半を光とするなら、一転して後半は闇。北朝鮮側が資本主義への憎悪を募らせ、収容所の米国人兵士や韓国人捕虜へ暴行・殺人を繰り広げていき、ダンスの本番であるクリスマスイベントで米国軍をせん滅しようと暗躍していく様を通じて、自分が信じる共産主義と資本主義の象徴であるタップダンスへの意欲とのはざまで苦悩する主人公の姿に焦点が当てられます。 クライマックスでは、5人の集大成である完成度の高いダンスに魅了されつつも、やはりこの映画は「戦争映画」であるのだということを思い知らされます。戦争がなければ、この5人の運命も違ったのかもしれません。 主人公の北朝鮮青年「ロ・ギス」を演じたのは、韓国内で絶大な人気を誇るアイドルグル