スキップしてメイン コンテンツに移動

Swing kids

韓国映画「スウィング キッズ」を鑑賞しました。

朝鮮戦争時、南北朝鮮それぞれの捕虜の収容所として実存した「巨済島(コジェ)」を舞台に、主人公である北朝鮮の捕虜の青年と収容所に配属された元・タップダンサーの米国軍人との交流を通じ、タップダンスに熱中していく様子を描く映画です。

この2人の関係性を軸に、南朝鮮(韓国)の人間として、戦火の中で妻子と生き別れてしまった男、両親を亡くし幼い兄弟抱えて必死に生きる少女、そして共産側として収容されている中国軍の捕虜の3人を加え、5人で構成されるダンスグループ「スウィング・キッズ」を結成し、収容所の体育館で開催されるクリスマスイベントに向け練習を重ねていく姿が全編を通じて描かれます。

しかし、物語が進むにつれて、この5人がそれぞれ抱える事情、ダンスをすることになった背景を通じて、この映画の舞台が「戦時下」にあり、かつ、その戦争が「同じ民族同士で殺しあう朝鮮戦争」であることが浮き彫りになっていきます。やがて、収容所内で起きる、南vs北、共産主義vs資本主義、白人vs黒人、朝鮮vs米国、、、といった様々な「二項対立」が、民族もイデオロギーも超え、ただ純粋にダンスに興じる5人を容赦なく巻き込んでいきます。

前半部分は、最初は見るに堪えなかった4人のダンスが、指導役の米国軍人とぶつかり合い、交流を通じて徐々に成長していく過程、中国人捕虜を中心としたくすっと笑えるコメディ要素、さらには北の青年と南の少女との恋模様も描かれており、一見すると若者の青春ストーリーという印象を受けます。

前半を光とするなら、一転して後半は闇。北朝鮮側が資本主義への憎悪を募らせ、収容所の米国人兵士や韓国人捕虜へ暴行・殺人を繰り広げていき、ダンスの本番であるクリスマスイベントで米国軍をせん滅しようと暗躍していく様を通じて、自分が信じる共産主義と資本主義の象徴であるタップダンスへの意欲とのはざまで苦悩する主人公の姿に焦点が当てられます。

クライマックスでは、5人の集大成である完成度の高いダンスに魅了されつつも、やはりこの映画は「戦争映画」であるのだということを思い知らされます。戦争がなければ、この5人の運命も違ったのかもしれません。

主人公の北朝鮮青年「ロ・ギス」を演じたのは、韓国内で絶大な人気を誇るアイドルグループ「EXO」のメンバー、ド・ギョンスさん。演技派俳優としても有名で、本作ではその演技力もさることながら、本業で培われたキレのあるダンスがいかんなく発揮されています。また、元・タップダンサーでスウィング・キッズの指導役となる米国軍人を演じたジャリッド・グライムスさんは現役のダンサーであり、迫力のあるタップダンスを惜しみなく披露してくれています。

コメント

このブログの人気の投稿

茶道における「おもてなし」の本質

茶道は日本の伝統文化の一つであり、客をもてなす心が大切だと言われています。しかし、私はお点前をする際、少し異なる観点を持っています。それは、「お点前さんは客をもてなす存在ではなく、茶器や茶釜、茶杓たちと同じ『茶を点てる道具の一部に過ぎない』」という考え方です。この視点を持つことで、自我を極力排し、茶を点てる行為そのものに専念するようにしています。 「おもてなし」と「表無し」の違い 一般的に「おもてなし」という言葉は、「客をもてなす」という意味合いで使われます。しかし、私の師匠から教わったのは、「おもてなし」を「表無し」として捉えることの大切さです。 表がなければ裏もない。これが「表無し」の本質です。確かに、誰かを特別にもてなすことは、その人に幸せを感じてもらえますが、同時に他の人をもてなさないという区別が生まれ、不満が募る原因にもなり得ます。茶道の精神において、これは避けるべきことです。 もちろん、相対するお客さんによっては、多少作法に差は生じます。古くは天皇や皇族方、将軍や大名といった特殊な立場の人々、現代では経営者などの立場のある方と私たちのような一般の方とでは、その方々が茶室で窮屈な思いをしないよう、点前の作法や使う茶碗を普段のものと区別して気遣うということはあります。ただ、目の前にある一碗の茶自体が、人を取捨選択、区別しないことは常に意識しています。 茶席で客をもてなさない、という意味では決してありません。お客さんへの気遣いやもてなしについては、アシスタントである半東さん(はんどう:接客役のようなもの。茶会では、お点前さんと半東さんの二人体制で茶席を差配します)にお任せして、茶を供する点前役としては、表も裏もつくらず、ただ目の前の茶を点てることだけを念頭に置いています。半東さんがいないときは、自分一人でお点前ももてなしもするわけですが、それでもお点前中は静寂を保ち、一切の邪念は振り払うようにしています。 無心で茶に語らせる 私たち人間は完璧ではありません。目の前の客に心を注ぐことはもちろんできますが、同時に周囲のすべてに気を配るのは容易ではありません。だからこそ、「表」を意識せず、「裏」を作らず、ただ無心で茶を点てる。点てた茶そのものが、香りや風味などで語り始めるのを待ちます。 茶道において、道具たちは私たちと同じく主役の一部です。茶釜が湯の音を奏で、茶杓が...

Shaolin Temple Europe: Exploring the Intersection of Tradition and Modernity

In the heart of Germany lies a haven of ancient wisdom and martial arts mastery: Shaolin Temple Europe . My recent trip to Germany, accompanied by a friend who is a licensed Qigong trainer, led us to this remarkable place. For her, the opportunity to delve into the teachings of Shi Feng Yi , the esteemed headmaster of Shaolin Europe, was a dream come true. Visiting the temple was the pinnacle of our itinerary, and after much anticipation, we finally set foot within its hallowed grounds. Although Master Shi was away on a journey to spread his profound knowledge of Qigong and Gongfu across the globe, our disappointment was quickly dispelled by the warm welcome we received from a monk named Miao. Miao, hailing from France, exuded a serene aura that spoke volumes of his dedication to monkhood. His very name, bestowed upon him in the tradition of Buddhism, hinted at the depth of his spiritual journey spanning several years. Despite Master Shi's absence, Miao graciously guided us through...

茶道人口の減少

昨年末に地元で、学生時代の後輩と飲みに出かけました。彼は、私が茶道家であることをしっているので、その酒の席で、数年前の茶席での経験を教えてもらいました。 彼は、大学時代の茶道部OBの友人に誘われ、茶道部の現役学生とOBが取り仕切る大寄せの茶会に参加したそうです。茶道初心者の彼が、何とか見様見真似で体験したものの、敷居の高さや作法の難しさ、さらには周囲の雰囲気に押されて、かなり苦労したとのことでした。 例えば、茶席では扇子を携帯するのが一般的です。扇子は、挨拶や金銭の受け渡しの際に敷物として使うなど、礼儀の一環として必要なアイテムです。しかし、持っていなくても別にどうってことはないと私は思うのですが、彼は律儀にも下調べして扇子を携帯したようです。ただ、茶道用の小ぶりなものではなく、普通の仰ぎ扇子を持参したそうで、周囲の人からじろじろ見られ、恥ずかしい思いをしたと言います。 さらに、正座も大きな負担だったそうです。慣れていない人にとって、長時間の正座は非常に辛いものです。気遣いのできる亭主であれば、「脚を崩しても大丈夫です」と声をかけてくれるものですが、今回はそういった配慮がなかったとのこと。それにもかかわらず、茶席は由緒ある寺院で行われ、濃茶席、茶懐石、薄茶席と順々に案内され、一つ一つ丁寧に説明があったそうです。脚の痛みを我慢しながらなのでせっかくの説明も上の空で聞く羽目になり、脚を崩したいことも言い出せず、ひたすら苦しい時間だったと話していました。 この話を聞いて、私は茶道家として非常に心苦しく感じました。確かに正座や扇子といった作法は、茶道を学ぶ者にとって基本の礼儀です。しかし、茶道に馴染みのない人への心遣いや配慮が欠けていたことが、後輩のような初心者にとって茶道が遠い存在に感じられる原因になったのだと思います。 こうした排他的な側面が、茶道人口の高齢化や減少に拍車をかけているのではないかと考えます。茶道は本来、形式や礼儀だけではなく、「和敬清寂」の精神を通じて、人々に安らぎや幸せを提供するものです。しかし、その根幹を忘れ、形式ばかりが先行してしまうと、初心者や若い世代にとっては高い壁となってしまいます。 年末にこのような話を聞けたことは、茶道家として改めて自分のあり方を考える機会となりました。茶席が初心者や一般の方にも楽しめるものになるように、作法や形式に固執す...