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神使(しんし)、神様のお使い

神道には、特定の動物を神の使者や眷属としてみなす考えがあります。これらの動物を「神使(しんし)」と呼び、春日大社や鹿島大社の鹿、稲荷神社の狐といった実在する動物の場合もあれば、眞名井神社の龍のように架空の存在を神使とする場合もあります。また、大抵の場合、関連する神を祭る神社の境内には、神使をかたどった彫像や絵画が安置されていたり、その動物が飼育されていたりします。


伊勢の神宮に関わりある皇祖アマテラスにも、神使がいます。
それは、毎朝鳴いて夜明けを知らせ、太陽をお迎えする鶏です。

神と神使の関係性は、概ね記紀などに書かれた神話や神社縁起に記されています。アマテラスと鶏の場合は、有名な天岩戸神話に描写があります。

天岩戸神話
妻・イザナミと死に別れた後、父イザナギから生れ出たアマテラス、ツキヨミ、スサノオの3姉弟は、それぞれ天界、月、海の統治を任されました。その後、天界にいるアマテラスのもとに末弟・スサノオがアマテラスのもとにやってきました。当初は、荒ぶる弟が攻め込んできたのだと思ったアマテラスでしたが、誓約を通じてスサノオに邪念はないことを確認します。

ところが、それに気を大きくしたスサノオは、あろうことか天界の田畑を荒らし、動物の皮を剥ぐなどの乱暴狼藉を重ねていきます。当初は、そんな弟を受け入れていたアマテラスでしたが、機織りの侍女が巻き込まれて死んでしまったのを見て狼狽し、世を憂いて岩戸の中に閉じこもります。

太陽の神であるアマテラスが身を隠したため、世界は暗闇に包まれました。困った八百万の神々は天安河原(アメノヤスガワラ)に集まり、アマテラスを岩戸から連れ出すための知恵を出し合いました。

そして、神々がまず初めに試してみたのが、毎朝夜明けとともに聞こえる「ナガナキドリ」の鳴き声によって、日の出と同じように太陽神・アマテラスを岩戸の外へお迎えしようというものでした。

結果的に、それだけでは岩戸が開かないことを悟った神々は、次の策としてアメノウズメに舞を舞わせ、中にいるアマテラスの注意を引き付けることにしました。神々の思惑通り、騒がしくなった外の様子を窺おうとアマテラスが岩戸を少しだけ開いた瞬間に、力自慢のアマノタヂカラオが岩戸が開ききったことで、世に光が戻ることとなります。

「ナガナキドリ」は、「長鳴鶏」。
夜明けとともに「コケコッコー」と鳴く鶏のことです。

式年遷宮と鶏
伊勢の神宮で20年に一度行われる式年遷宮、その中心的な儀式である遷御の儀(神体を古宮から新宮へ移す儀式)では、この天岩戸神話になぞらえた所作があります。

古宮正殿の御扉が開き、遷御のためにご神体がまさに外界へ出る直前、お付きの神職が鶏の鳴き声をまねて、「カケコー、カケコー、カケコー」と声を発します。この掛け声のことを「鶏鳴(けいめい)」と呼び、これによって、お移り頂く神に夜明けを告げるものとされています。

参拝されるときには…
このような理由から、伊勢系の神が祭られる神社に赴く際には、神使の鶏に敬意を払ったほうが良いと言われています。具体的には、「鶏を殺す行為」、すなわち鶏肉や卵を使った料理の摂取をやめることです。

神道では、殊の外「死」を穢れたものとして忌避する傾向が強いこともありますが、何より神域に向かう自分の体の中に、神の使いを殺したものが内在しては、神が悲しむと考えているからです。

出来れば、参拝前日からこうした料理は避けるとよいと思います。
なお、参拝後に制限はありませんので、参拝を終え神域から出た後は、鶏肉料理を頂くことも問題ありません。(その場合、再び神域に入ることは出来ません。)

なお、他の動物を神使とする神社に赴く際も、その種類に応じて同じように注意されるとよいと思います。

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