スキップしてメイン コンテンツに移動

弥勒菩薩

仏教には、大日如来や薬師如来など様々な仏が存在しますが、その中でも「仏陀」(ぶっだ)という存在は、全ての仏の頂点に立つ唯一無二の存在とされています。
(流派によって、異なる場合あり。)

仏陀は交代制の役職のようなもので、現在は「お釈迦様」(釈迦牟尼仏)が仏陀として存在しています。そして、その後継者とされているのが「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」です。弥勒は、567000万年後の未来で釈迦に代わって仏陀となり、釈迦の時代に救いきれなかった人々を救う役目を担っています。

現在は兜率天(とそつてん)とよばれる別世界にいて、人類の一切の辛苦を背負いながら、来るべき未来に備えて修行中であるとされています。

弥勒菩薩の姿
弥勒菩薩は、サンスクリット語で「マイトレーヤー ボッディサットヴァ」(慈悲の菩薩)と称されています。インドから中国に仏教が伝来する道中、中央アジアで信仰されていた「ミトラ神」と混合し、弥勒(ミトラの音写)と呼称されたマイトレーヤーが朝鮮半島、そして日本に伝わったと考えられています。

名前だけでなく、彫像などによる表現方法にも変遷があります。インド、中央アジアでは筋骨隆々のたくましい男性のように表現されていますが、中国以東になると男女とも区別がつかない中性的な表現が多くなります。

日本では、国宝彫刻の第一号である広隆寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名です。教科書や京都の観光ガイドなどで写真が多く掲載され、東大寺の大仏と並んで圧倒的な知名度を誇る仏像だと思われます。

広隆寺
広隆寺の弥勒菩薩像(※1)
広隆寺は京都市右京区太秦にある真言宗の寺院で、聖徳太子が建立にかかわった七寺院の一つです。聖徳太子より授けられた弥勒菩薩像を安置するため、渡来系である秦氏の族長・秦河勝(はたのかわかつ)が、西暦603年に一族の本拠地である太秦の地に建立したとされています。

現在、境内の講堂には阿弥陀如来像、上宮王院太子殿には聖徳太子が本尊として祀られ、弥勒菩薩像は「新霊宝館」にて、他の国宝・重要文化財級の仏像とともに展示されています。

渡来系の祈り
広隆寺の弥勒菩薩像には、いくつかの特徴がみられます。代表的なものは、以下の通り。
  • 手の位置、足の組み方など全身のフォルムは、韓国・ソウル市の国立博物館に展示されている弥勒菩薩像とよく似ている(半跏思惟型)
  • ソウルのものと同様、朝鮮半島原産の「アカマツ」が使用されている(日本の仏像は、従来「樫」を使用することが多い)
  • しかし、その顔立ちはソウルの像とは異なり、日本産の他の仏像と同様の特徴が出ている
ソウルの弥勒菩薩像(※2)
これらを総合すると、ある程度の期間を経て日本の風土に慣れてきた渡来人が、故郷である朝鮮半島の例を参考に、同じ原料を輸入して日本で作成したものが広隆寺の弥勒菩薩像だと考えられています。

また、同じく聖徳太子に関わりのある中宮寺(奈良県斑鳩町)の本尊・如意輪観音像は、広隆寺のものとよく似た半跏思惟像です。その形態・表情から、元来は弥勒菩薩を意図して作成された像であろうと推定されています。

(※1)Retrieved on 2018/8/18 from wikipedia:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maitreya_Koryuji.JPG#/media/File:Maitreya_Koryuji.JPG
(※2)Retrieved on 2018/8/18 from Wikipedia:
By 국립중앙박물관(National Museum of Korea) - 국립중앙박물관(National Museum of Korea), KOGL Type 1, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32943449

コメント

このブログの人気の投稿

Shaolin Temple Europe: Exploring the Intersection of Tradition and Modernity

In the heart of Germany lies a haven of ancient wisdom and martial arts mastery: Shaolin Temple Europe . My recent trip to Germany, accompanied by a friend who is a licensed Qigong trainer, led us to this remarkable place. For her, the opportunity to delve into the teachings of Shi Feng Yi , the esteemed headmaster of Shaolin Europe, was a dream come true. Visiting the temple was the pinnacle of our itinerary, and after much anticipation, we finally set foot within its hallowed grounds. Although Master Shi was away on a journey to spread his profound knowledge of Qigong and Gongfu across the globe, our disappointment was quickly dispelled by the warm welcome we received from a monk named Miao. Miao, hailing from France, exuded a serene aura that spoke volumes of his dedication to monkhood. His very name, bestowed upon him in the tradition of Buddhism, hinted at the depth of his spiritual journey spanning several years. Despite Master Shi's absence, Miao graciously guided us through...

茶道における「おもてなし」の本質

茶道は日本の伝統文化の一つであり、客をもてなす心が大切だと言われています。しかし、私はお点前をする際、少し異なる観点を持っています。それは、「お点前さんは客をもてなす存在ではなく、茶器や茶釜、茶杓たちと同じ『茶を点てる道具の一部に過ぎない』」という考え方です。この視点を持つことで、自我を極力排し、茶を点てる行為そのものに専念するようにしています。 「おもてなし」と「表無し」の違い 一般的に「おもてなし」という言葉は、「客をもてなす」という意味合いで使われます。しかし、私の師匠から教わったのは、「おもてなし」を「表無し」として捉えることの大切さです。 表がなければ裏もない。これが「表無し」の本質です。確かに、誰かを特別にもてなすことは、その人に幸せを感じてもらえますが、同時に他の人をもてなさないという区別が生まれ、不満が募る原因にもなり得ます。茶道の精神において、これは避けるべきことです。 もちろん、相対するお客さんによっては、多少作法に差は生じます。古くは天皇や皇族方、将軍や大名といった特殊な立場の人々、現代では経営者などの立場のある方と私たちのような一般の方とでは、その方々が茶室で窮屈な思いをしないよう、点前の作法や使う茶碗を普段のものと区別して気遣うということはあります。ただ、目の前にある一碗の茶自体が、人を取捨選択、区別しないことは常に意識しています。 茶席で客をもてなさない、という意味では決してありません。お客さんへの気遣いやもてなしについては、アシスタントである半東さん(はんどう:接客役のようなもの。茶会では、お点前さんと半東さんの二人体制で茶席を差配します)にお任せして、茶を供する点前役としては、表も裏もつくらず、ただ目の前の茶を点てることだけを念頭に置いています。半東さんがいないときは、自分一人でお点前ももてなしもするわけですが、それでもお点前中は静寂を保ち、一切の邪念は振り払うようにしています。 無心で茶に語らせる 私たち人間は完璧ではありません。目の前の客に心を注ぐことはもちろんできますが、同時に周囲のすべてに気を配るのは容易ではありません。だからこそ、「表」を意識せず、「裏」を作らず、ただ無心で茶を点てる。点てた茶そのものが、香りや風味などで語り始めるのを待ちます。 茶道において、道具たちは私たちと同じく主役の一部です。茶釜が湯の音を奏で、茶杓が...

痛いのではない、痛みを思い出しただけさ

Gregory Maxwell - From File:Yin yang.png, converted to SVG by Gregory Maxwell., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=364239による 歌手の宇多田ヒカルさんが、自身のインスタライブで視聴者からの質問に答えていた時のこと。海外ファンから、「なぜ大切な方との関係が終わった時に、心が痛むのか?」という、答えに窮するような質問がありました。宇多田さんはしばらく考えた後に、その質問に対して、このように答えるのです。 「その痛みは、もともと持っていたものじゃないのかな。それで、その人との関係は<痛み止め>みたいなもので、その間痛みを忘れていたというか。だから、関係が終わった時に痛みを思い出したのだと思う。」 (宇多田さんは英語で回答されていたので、内容を意訳しております。) ヒット曲を連発する宇多田さん、その感性に改めて脱帽しています。 宇多田さんがご存じなのかどうかわかりませんが、この考え方は易経にある「陰陽」の考え方に通じるところがあります。万物は、常に陰陽、2つの正反対の側面を持つというものです。 太極図 冒頭の陰陽マーク、ご存知の方も多いのではないでしょうか。 黒は陰、白は陽を現し、一つの円に勾玉のような形で陰陽が描かれています。また、陰陽ともに同じ面積であり、一つのものには、1:1の比率で陰と陽がセットになっているという、易経が最も重視する考えを端的に示した図です。 宇多田さんの例をとると、痛みは陰、大切な方との関係を陽としたときに、陽にいる間、もともとの痛み(陰)を忘れていただけ、という見方ができます。   このマーク、正式には「太陰太極図」と呼ばれています。 大いなる陰が大きく極まった時の図、と解釈できますね。 宇宙や海底、母親の胎内。生命が始まった場所はすべて光の届かない闇。「 陰 陽」であって「陽 陰 」ではないことからも、闇の上に光が存在していることがわかります。闇が極まった時、光が誕生する。この「陽転」とよばれる瞬間を切り取ったのが、太極図なのかもしれません。 光ばかり注目される世の中。 多くの人が、物事の良い面ばかりを追いかけていきます。 でも、「光があるから闇」ではなく、闇の中にい...