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和敬清寂(わけいせいじゃく)

和敬清寂とは、茶道において重要な考え方で、「 主人と客がお互いの心を和らげて謹み敬い、 茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にする」ことを指します。 千利休の言葉とされていますが、確たる資料がなく、 学術的に認められていないようです。 とはいえ、利休の流れをくむ三千家(表千家、裏千家、 武者小路千家)では、「茶道の極意」として尊ばれています。 先日、三千家とは別流派の茶道「石州流」の開祖・ 片桐石州の遠忌に伴う大茶会が、片桐家ゆかりの寺院「慈光院」 で開かれました。 僕は 10 年ほど石州流で稽古を積んでいて、 今回薄茶の点前を皆さんに披露いたしました。 茶会の前日、慈光院の和尚様にご挨拶させていただき、「 粗相のないように、点前を披露いたします」と伝えました。 すると、和尚様から「粗相とは、何ですか?」と問われました。 そこから、禅寺特有の「問答」が始まりました。 マンツーマンで、 30 分間。みっちりと。 和尚様から言われたのは、 お点前さんとしての和敬清寂の意味でした。 ・和敬=「自ら謹(敬)んで、場を和ませる」 ・清寂=「自ら語らず(寂)、場を清める」 つねに自らを下に、もてなす客を上にということです。 格式に驕ってはいけません。 格式に驕り、形式に傾倒するお点前さんや とやかく細かいことを言い、粗相を責める人はみな「茶道マニア」 であり、 「茶人」ではありません。 大事なのは、お茶を楽しんでもらうこと。 それに集中すれば、細かい粗相なんてどうでもよいのです。 どうぞ、茶人を目指してください。 この言葉を聞いて、肩の力がすっと抜けたようでした。 茶会当日、実は細かい作法のミスは多々あったのですが、 「自分は、茶人」 という言葉を胸に、それらしく振舞って点前を続けました。 ミスに気づかれなかったか、 分かっていてもお客様が寛大な心で見てくださったのか、 いずれにしても参加された方にご好評をいただいたようです。 終わりよければ、なんとやら。 短い時間でしたが、 茶人であることの意義を深く考えさせられた茶会でした。

寂光院

寂光院は、京都・大原にある天台宗の寺院です。創始の経緯は不明ですが、寺伝では594年に聖徳太子が父を弔うために開基したとあります。 2000年に起きた火災により、本尊である地蔵菩薩像(重要文化財)が損傷を受けました。現在は新調されたものが本堂に安置されていますが、損傷を受けた旧像も重要文化財の認定を受けたまま、大切に保管されているようです。 また、平清盛の娘・徳子が出家後の余生を送った場所であり、平家の栄枯盛衰を描く『平家物語』のクライマックスに登場することで有名です。 平徳子 平徳子(たいらのとくこ/とくし)は、1155年に平清盛と正室(後妻)・時子との間に生まれました。16歳の時、父・清盛の意を受けて第80代 高倉天皇の妻となり、皇太子(言仁親王)を産みます。この皇太子が第81代 安徳天皇として即位した後は天皇の母「国母」、女院宣下後は「建礼門院(けんれいもんいん)」として政治的な発言力を有するなど、権勢を誇るようになります。 清盛の死後、徳子を取り巻く状況は悪化の一途をたどります。やがて実家である平家の都落ちに従うこととなり、長らく逃亡生活を続けた後、壇ノ浦で母や安徳天皇らとともに入水します。しかし、徳子は死にきれず、源氏に捕らえられます。 壇ノ浦の合戦後、平家の残党の多くは罪に問われましたが、国母であった徳子にお咎めはありませんでした。しかし、後ろ盾であった平家は滅び、安徳天皇とも死に別れた徳子には、新天皇が即位した朝廷内での居場所は残されていませんでした。そこで彼女は、生まれて初めて自分の意志を貫き、壇ノ浦で散った我が子と平家一族を弔うため、出家する道を選びます。 出家後、しばらくは都にとどまっていましたが、平家の血を引く女院ともあれば、居心地が悪かったのでしょう。ほどなくして、都から遠く、貴人の隠棲先として有名な大原の地にある寂光院に阿波内侍(あわのないし)ら数人の侍女を引き連れて移り、余生を過ごしました。 後白河法皇の訪問 史実かどうか議論はありますが、1186年に後白河法皇が寂光院にいる徳子をお忍びで訪ねたとされています。そのエピソードが、平家物語の最終巻に描かれています。 法皇は、かつての国母がうら寂しい庵でつましく暮らしている様に心を痛めます。一方の徳子は、落ちぶれた身を恥じらいつつ、泣く泣く法皇と面会し

湯殿山神社

湯殿山神社は、古くから修験道の聖地として栄えた出羽三山(山形県中央部の羽黒山、湯殿山、月山の3岳)を構成する神社の一つです。 平安時代の神社リスト「延喜式」には、「由豆佐売神社(ゆずさめじんじゃ)」の名で掲載されています。 主祭神は、山の神・オオヤマツミと出雲の国造り神話で有名なオオナムチ(オオクニヌシの別名)、スクナヒコのコンビ、あわせて3柱の神です。 また、雪により冬季(11月~3月)は閉鎖されるため、参拝は春~秋に限られます。 社伝によると、第32代 崇峻天皇が蘇我氏に暗殺され、息子の蜂子皇子が出羽国に亡命した際、3本足のカラスに導かれて羽黒山にて修行したことが起源とされています。そして、593年に出羽神社(羽黒山)と月山神社(月山)、その13年後に湯殿山神社が創始されました。 俗世からの離脱とむき出しの御神体 標高1,500mの湯殿山自体が神体山であり、神仏習合の時代には真言宗の中心仏・大日如来に仮託されるなど、別格の存在とされていました。修験者は、千日間におよぶ徹底的な修業によって即身仏となることを求めて山中に入ったとされ、他の2山に比べてもその険しさが際立っています。現在でも、その中腹にある神社が全て神域となっており、参拝者は俗世から離れることを示すべく、入り口でお祓いを済ませ、境内では常に下足して裸足のままでいなければなりません。 また、境内には社務所など最低限の建屋はありますが、社殿は存在しません。つまり、御神体がむき出しとなっており、参拝者が直接触れて拝むことができるようになっています。 問うな、語るな 誰でも御神体に触れることができる反面、古くよりその在り様について口外することは禁忌とされてきました。つまり、御神体を含む境内の様子について、参拝した人に問うことも、他人に語ることもNGということです。もちろん、写真や動画の撮影も禁止です。 ヒントは、湯殿山という名前です。その名が示す意味のまま、御神体が存在しています。これ以上を知りたければ、山を登り直接ご覧になる必要があります。 なお、登山となるとかなりの覚悟が必要ですが、現在はレストハウスがある大鳥居まで車道が整備され、公共のバスや自家用車が使用できます。また、大鳥居から境内まで専用バスが出ているようであり、登山しやすい環境が整えられてい

「坐」と「禁足地」

神社の中には、「○○坐××神社」というように、「坐」という漢字を社名に用いるところがあります。個人的には、「飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)」のように、奈良県にある古社に多いように思います。 また、神様自身の正式名称にも「坐」が使われることがあります。例えば、皇祖アマテラスについて、一般的には「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」とされますが、伊勢の神宮では「天照 坐 皇大御神」(あまてらしますすめおおみかみ)と称されています。 「坐」の正体 「坐」は、音読みでは「ざ」、訓読みでは「います/ます」と読みます。現代漢字の「座」とほぼ同じく「座ること」を意味しますが、古代では「座」と「坐」は以下のように使い分けられていたようです。  座る「動作」⇒「座」  座る「場所」⇒「坐」 従って、古代より続く神社の名で「坐」が使用される場合は、「神社/神様がいる場所」という意味であることが多く、飛鳥坐神社は「飛鳥の地にある神社」もしくは「飛鳥の地にいる神様」を意味します。また、アマテラスの例では、「坐」が伊勢以外で使用されないことから、御神体が神宮にあることを強調しているものだと推測されます。 「坐」は、単純にその場所に神社があることを示す場合もあれば、何らかの事情でその場所から動けない、或いは動かさないという意思を込めているという説もあります。 社名に「坐」が含まれる神社に赴くと、多くの場合、その土地に根付いた神や有力豪族の本拠地にその氏神が祀られていることがわかります。神社の土地と祀られる神様との関係が強い、ということを示しているようです。 禁足地=外出禁止 一方、石上神宮(奈良県)や椿大神社(三重県)のように、境内に「禁足地」が設けられている神社があります。「神聖な場所であるため、参拝者は立入禁止」と認識され、神社関係者もそのように理解しているケースがありますが、間違いです。 外から中に入ってはいけない「立入禁止」とは違い、「禁足」は「中から外に出てはいけない(外出禁止)」ことを意味します。 神社の誤用ではなく、本来の意味で「禁足地」が設けられているのだとしたら、概ね「神様は、その禁足地から出られない」ことを意味しています。諸説ありますが、神様が禁足地に常駐することに意味があったり、祟る神であるゆえに閉じ込められていたりすると

ミシャグジと諏訪大社

「ミシャグジ」 この言葉に予備知識もなく反応される方は、長野県のご出身か神様好きな方のいずれかではないでしょうか。 漢字で「御社宮主」「御左口」と表記されるミシャグジは、長野県の諏訪地方に根差す蛇体の神様です。諏訪といえば、タケミナカタを祀る「諏訪大社」が有名ですが、ミシャグジについてあまり語られることはありません。それは、出雲から諏訪に逃げてきたタケミナカタと争い、ミシャグジが負けたという地元の伝承に関係しています。 タケミナカタ(建御名方) タケミナカタは、出雲大社の祭神・オオクニヌシの次男で、力自慢の戦神です。ところが、アマテラスの依頼を受けた軍神・タケミカヅチが日本の国土をアマテラス一族に譲るよう迫った時、最後まで抵抗したものの、力及ばず敗走しました。この時、タケミナカタが逃げてきたのが諏訪であり、追ってきたタケミカヅチに対し「諏訪から二度と外に出ない」と誓って、許しを請うたとされています。 この後、記紀ではオオクニヌシが国譲りに応じ、天孫による国土統治へと物語が進むため、タケミナカタについて語られることはありません。一方、地元の伝承によると、この時の諏訪では、二度と外に出ないと誓った以上、何としても足固めをしたいタケミナカタと土着神・ミシャグジによる争いが始まったとあります。 元来、ミシャグジは五穀豊穣を守る農耕の神として祀られていたようです。しかし、争いは戦に長けたタケミナカタの勝利に終わり、ミシャグジは諏訪の守護神としての地位を奪われ、隅に追いやられました。 諏訪大社とミシャグジ社 諏訪大社は、戦神を祀る「信濃国一之宮」として歴代の幕府や武将による庇護を受け発展し、特に武田信玄が深く信仰していたことが知られています。現在も全国に25,000社ある諏訪神社の総本宮として、年始の初詣や観光などで多くの参拝客が訪れています。 神社の形態としては珍しく、諏訪湖を挟んで独立して存在する上社(本宮、前宮)、下社(秋宮、春宮)の2社4宮で構成され、上社にはタケミナカタ、下社にはその妻であるヤサカトメが主祭神として祀られています。 他方、争いに負けたミシャグジは、上社2宮のほぼ中間地点にある守矢家の敷地内( 神長官守矢博物館)に ひっそりと祀られています。「守矢」は、代々上社の 神長官 を務め、諏訪大社全体ではナンバー2の地

生駒山 宝山寺

生駒山 宝山寺は、奈良県の生駒山上にある真言宗の寺院であり、一般的には「生駒聖天(いこましょうてん)」の名で知られています。本尊は不動明王ですが、「歓喜天」という仏(護法善神)を祀っていることで有名です。 宝山寺のルーツは、修験道の始祖・役小角が655年、生駒山中に開いた修験道場にあり、空海も修業したと伝えられています。但し、宝山寺としての歴史は、役小角の時代から1000年以上経た江戸時代(1678年)、湛海律師が道場を再興する形でスタートしています。 歓喜天 ガネーシャ(※) 歓喜天(かんきてん)は、象の頭と顔、首か ら下は太鼓腹と四本の腕という体をもつヒンドゥー教の神「ガネーシャ」が仏門に帰依した姿だとされています。ガネーシャは元来、障害をもたらす悪神であったのが、いつの間にやら障害を取り除く神様となり、現在では「富と成功をもたらす神様」として広く信仰されています。 一方、歓喜天としては、はじめに人間の抱えている欲望を叶え、心を落ち着かせてから仏の道に導く仏神とされています。願いを叶えてくれることから、現世利益(自分が生きている間にご利益を頂くこと)を求めて各地で信仰されています。 また、歓喜天は観音菩薩、或いは真言宗の中心仏である大日如来が変身した姿とも言われています。このため、変身前の本体の仏性を示すために「聖天」の呼称が用いられるようになりました。従って、東京の湯島聖天など「聖天」と名の付く寺院は、大抵歓喜天を祀っています。 (※) Retrieved on 2018/6/26 from  Wikipedia    GFDL-no-disclaimers, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=10304 遊郭と歓喜天 (※) 歓喜天を仏像や仏画で表す際、「一対の男女(男女の人間、もしくは雄と雌を区別した半人半象)が抱擁している」モチーフが好まれます。性的な意味合いを持っているため、日本仏教においては秘仏とされ、宝山寺でも公開されることはないといわれています。「歓喜」というのは、人間の欲望の中でも特に愛欲が満たされることを示しているようです。 宝山寺の門前町は「生駒新地」と呼ばれ、かつては遊郭街として栄えました。最寄りのケーブル

道鏡(1)

「弓削道鏡」(ゆげのどうきょう)という人物をご存知でしょうか。 奈良時代に実在し、庶民出身の仏僧でありながら、女性である孝謙天皇の寵愛を受け、天皇に次ぐ「法王」という地位にまで立身出世した人物です。天皇の地位を臨むまでになりましたが、最後には夢破れて地方へ左遷されてしまいます。学校教科書にあまり登場しないため、知らない方も多いかもしれません。 この道鏡、女性天皇の寵愛を受けての出世、そして皇位を奪い取ろうとした話により、歴史において悪役の地位を不動のものにしています。ただ、道鏡に関する史料の殆どが、道鏡を追い落とした藤原氏がまとめた歴史書であり、道鏡のことを悪し様に書き残していることが、今日における悪役扱いの理由かもしれません。 道鏡の生誕地は、現在の大阪府八尾市付近であったとされ、後に孝謙天皇のバックアップにより壮大な寺院「由義寺(ゆげでら)」を建立しています。最近、この由義寺のものとみられる遺跡が発見されたことを機に、道鏡を見直す機運が生まれつつあります。 先日、とある会合でこの道鏡について発表する機会を得ました。今回は、その発表内容をベースに、このブログでもごく簡単にまとめてみたいと思います。 長くなるので、投稿を数回に分けます。第一回目は、道鏡の生い立ちから出家、そして朝廷に出仕するまでの流れです。 生い立ち 道鏡は西暦700年に河内若江郡で出生したとされていますが、正確な生年は今も不明です。また、「道鏡」は出家後の法名であり、本名もわかっていません。ただ、後に道鏡が朝廷内での権力保全のため、実弟を含む河内の弓削一族を重用したこと記録に残っており、弓削氏の出身であることはほぼ間違いないと思われます。 弓削氏は、河内地方の有力豪族・物部氏の傍系にあたり、その名の通り弓を作る職人集団であったと考えられています。しかし、決して身分は高くなく、あくまで官位の無い庶民クラスの一族でした。 (但し、例えば「村長」のように、庶民としては比較的身分が高かったようです。) 出家 道鏡は、地元の寺にいた法師に師事して出家し、「道鏡」の名を授けられました。その後、その法師のつてにより、当時の仏教界において絶大な影響力を持っていた東大寺の義淵(ぎえん)法師の弟子となり、次いで兄弟子である良弁法師に師事します。 このこ

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)

歴代の天皇が亡くなると、遺体は「御陵(みささぎ/ごりょう)」に埋葬されます。いわゆる「お墓」で、古代においては大仙古墳(大阪府堺市)のように大規模な前方後円墳が主流でした。平安時代以降では、第76代 近衛天皇の「堂塔」、第77代 後白河天皇の「法華堂」のように仏教色の濃い御陵に変遷していきます。そして、江戸時代の天皇方については仏閣でよく見かける「石造九重塔」、第122代 明治天皇から先代の第124代 昭和天皇までは「上円下方型」で統一されています。 これらの御陵では、拝所までは自由に立ち入って参拝することが可能ですが、内部は人が立ち入らぬよう宮内庁が管理しています。考古学的な内部調査も許可されないため、中には本当に御陵なのか不明のまま「比定」されているものも存在します。 かつては神社に準じ、天皇による墓参のような位置づけで、朝廷が御陵に奉幣を行っていました。現在も、天皇および皇族が御陵を参拝することはありますが、神道の中で御陵が直接の信仰対象とされている例はあまりないと思います。ただ、伝統と風習により今でも御陵と密接な関係を保つ神社もあり、大阪府羽曳野市にある誉田八幡宮もその一つです。 誉田八幡宮 八幡宮とは、主祭神を第15代 応神天皇として信仰する約44,000社の神社の総称で、その総本宮は宇佐神宮(大分県宇佐市)とされています。 誉田八幡宮は、応神天皇陵の傍(後円部の南端)に位置しており、御陵を守る「宗廟」として、第29代 欽明天皇の命により西暦559年に創設されました。宇佐神宮(創始年:西暦571年)よりも前に創始されたことから、日本最古の八幡宮だといわれています。 応神天皇の「武士神」という神格から、誉田八幡宮は中世以降将軍家や名だたる武家から尊崇を集め、鎌倉幕府、室町幕府による寄進のほか、豊臣秀吉による自社領(200石)、豊臣秀頼からは消失した社殿再建の寄進(途中で豊臣家が滅亡するため、未完のまま終了)もあり、徳川幕府も手厚く保護していました。 また、奈良時代に「長野山護国寺」と称された仏閣も併設され、神仏混合の一大宗教拠点として永らく栄え、明治時代の廃仏毀釈後は、神社として存続し今日に至ります。 なお、かつては本殿が御陵の頂上(後円部の頂上)にありましたが、現在は御陵の外に移動しています。 御陵に入る 誉田八