寂光院は、京都・大原にある天台宗の寺院です。創始の経緯は不明ですが、寺伝では594年に聖徳太子が父を弔うために開基したとあります。
2000年に起きた火災により、本尊である地蔵菩薩像(重要文化財)が損傷を受けました。現在は新調されたものが本堂に安置されていますが、損傷を受けた旧像も重要文化財の認定を受けたまま、大切に保管されているようです。
また、平清盛の娘・徳子が出家後の余生を送った場所であり、平家の栄枯盛衰を描く『平家物語』のクライマックスに登場することで有名です。
平徳子
平徳子(たいらのとくこ/とくし)は、1155年に平清盛と正室(後妻)・時子との間に生まれました。16歳の時、父・清盛の意を受けて第80代 高倉天皇の妻となり、皇太子(言仁親王)を産みます。この皇太子が第81代 安徳天皇として即位した後は天皇の母「国母」、女院宣下後は「建礼門院(けんれいもんいん)」として政治的な発言力を有するなど、権勢を誇るようになります。
清盛の死後、徳子を取り巻く状況は悪化の一途をたどります。やがて実家である平家の都落ちに従うこととなり、長らく逃亡生活を続けた後、壇ノ浦で母や安徳天皇らとともに入水します。しかし、徳子は死にきれず、源氏に捕らえられます。
壇ノ浦の合戦後、平家の残党の多くは罪に問われましたが、国母であった徳子にお咎めはありませんでした。しかし、後ろ盾であった平家は滅び、安徳天皇とも死に別れた徳子には、新天皇が即位した朝廷内での居場所は残されていませんでした。そこで彼女は、生まれて初めて自分の意志を貫き、壇ノ浦で散った我が子と平家一族を弔うため、出家する道を選びます。
出家後、しばらくは都にとどまっていましたが、平家の血を引く女院ともあれば、居心地が悪かったのでしょう。ほどなくして、都から遠く、貴人の隠棲先として有名な大原の地にある寂光院に阿波内侍(あわのないし)ら数人の侍女を引き連れて移り、余生を過ごしました。
後白河法皇の訪問
史実かどうか議論はありますが、1186年に後白河法皇が寂光院にいる徳子をお忍びで訪ねたとされています。そのエピソードが、平家物語の最終巻に描かれています。
法皇は、かつての国母がうら寂しい庵でつましく暮らしている様に心を痛めます。一方の徳子は、落ちぶれた身を恥じらいつつ、泣く泣く法皇と面会し、恵まれた前半生から出家して我が子の菩提を弔う現状に至る半生を語り始めます。
源氏に平家追討の命令を出し、平家と徳子の没落を招いた法皇でしたが、涙を流して徳子を慰め、長きに亘った平家とのもつれに終止符が打たれます。そして、物語は法皇との面会から5年後に訪れる徳子の往生によって、幕が引かれます。
徳子の死
平家物語では、徳子は1191年に亡くなったとされています。しかし、晩年の徳子の動静ははっきりしておらず、実際はこれよりも長く生きたと見る向きもあるようです。ただ、いずれの歴史書にも、彼女の臨終は穏やかなものであったことが示唆されています。
なお、徳子の墓はもともと寂光院の境内にあったのですが、天皇の妻/母であることから、現在は歴代皇后に準じ、隣接地に移動させたうえで「御陵」として宮内庁が管理しています。
また、その御霊は、安徳天皇とともに全国の水天宮で祀られています。
2000年に起きた火災により、本尊である地蔵菩薩像(重要文化財)が損傷を受けました。現在は新調されたものが本堂に安置されていますが、損傷を受けた旧像も重要文化財の認定を受けたまま、大切に保管されているようです。
また、平清盛の娘・徳子が出家後の余生を送った場所であり、平家の栄枯盛衰を描く『平家物語』のクライマックスに登場することで有名です。
平徳子
平徳子(たいらのとくこ/とくし)は、1155年に平清盛と正室(後妻)・時子との間に生まれました。16歳の時、父・清盛の意を受けて第80代 高倉天皇の妻となり、皇太子(言仁親王)を産みます。この皇太子が第81代 安徳天皇として即位した後は天皇の母「国母」、女院宣下後は「建礼門院(けんれいもんいん)」として政治的な発言力を有するなど、権勢を誇るようになります。
清盛の死後、徳子を取り巻く状況は悪化の一途をたどります。やがて実家である平家の都落ちに従うこととなり、長らく逃亡生活を続けた後、壇ノ浦で母や安徳天皇らとともに入水します。しかし、徳子は死にきれず、源氏に捕らえられます。
壇ノ浦の合戦後、平家の残党の多くは罪に問われましたが、国母であった徳子にお咎めはありませんでした。しかし、後ろ盾であった平家は滅び、安徳天皇とも死に別れた徳子には、新天皇が即位した朝廷内での居場所は残されていませんでした。そこで彼女は、生まれて初めて自分の意志を貫き、壇ノ浦で散った我が子と平家一族を弔うため、出家する道を選びます。
出家後、しばらくは都にとどまっていましたが、平家の血を引く女院ともあれば、居心地が悪かったのでしょう。ほどなくして、都から遠く、貴人の隠棲先として有名な大原の地にある寂光院に阿波内侍(あわのないし)ら数人の侍女を引き連れて移り、余生を過ごしました。
後白河法皇の訪問
史実かどうか議論はありますが、1186年に後白河法皇が寂光院にいる徳子をお忍びで訪ねたとされています。そのエピソードが、平家物語の最終巻に描かれています。
法皇は、かつての国母がうら寂しい庵でつましく暮らしている様に心を痛めます。一方の徳子は、落ちぶれた身を恥じらいつつ、泣く泣く法皇と面会し、恵まれた前半生から出家して我が子の菩提を弔う現状に至る半生を語り始めます。
源氏に平家追討の命令を出し、平家と徳子の没落を招いた法皇でしたが、涙を流して徳子を慰め、長きに亘った平家とのもつれに終止符が打たれます。そして、物語は法皇との面会から5年後に訪れる徳子の往生によって、幕が引かれます。
徳子の死
平家物語では、徳子は1191年に亡くなったとされています。しかし、晩年の徳子の動静ははっきりしておらず、実際はこれよりも長く生きたと見る向きもあるようです。ただ、いずれの歴史書にも、彼女の臨終は穏やかなものであったことが示唆されています。
なお、徳子の墓はもともと寂光院の境内にあったのですが、天皇の妻/母であることから、現在は歴代皇后に準じ、隣接地に移動させたうえで「御陵」として宮内庁が管理しています。
また、その御霊は、安徳天皇とともに全国の水天宮で祀られています。
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