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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)

歴代の天皇が亡くなると、遺体は「御陵(みささぎ/ごりょう)」に埋葬されます。いわゆる「お墓」で、古代においては大仙古墳(大阪府堺市)のように大規模な前方後円墳が主流でした。平安時代以降では、第76代 近衛天皇の「堂塔」、第77代 後白河天皇の「法華堂」のように仏教色の濃い御陵に変遷していきます。そして、江戸時代の天皇方については仏閣でよく見かける「石造九重塔」、第122代 明治天皇から先代の第124代 昭和天皇までは「上円下方型」で統一されています。

これらの御陵では、拝所までは自由に立ち入って参拝することが可能ですが、内部は人が立ち入らぬよう宮内庁が管理しています。考古学的な内部調査も許可されないため、中には本当に御陵なのか不明のまま「比定」されているものも存在します。

かつては神社に準じ、天皇による墓参のような位置づけで、朝廷が御陵に奉幣を行っていました。現在も、天皇および皇族が御陵を参拝することはありますが、神道の中で御陵が直接の信仰対象とされている例はあまりないと思います。ただ、伝統と風習により今でも御陵と密接な関係を保つ神社もあり、大阪府羽曳野市にある誉田八幡宮もその一つです。


誉田八幡宮
八幡宮とは、主祭神を第15代 応神天皇として信仰する約44,000社の神社の総称で、その総本宮は宇佐神宮(大分県宇佐市)とされています。

誉田八幡宮は、応神天皇陵の傍(後円部の南端)に位置しており、御陵を守る「宗廟」として、第29代 欽明天皇の命により西暦559年に創設されました。宇佐神宮(創始年:西暦571年)よりも前に創始されたことから、日本最古の八幡宮だといわれています。

応神天皇の「武士神」という神格から、誉田八幡宮は中世以降将軍家や名だたる武家から尊崇を集め、鎌倉幕府、室町幕府による寄進のほか、豊臣秀吉による自社領(200石)、豊臣秀頼からは消失した社殿再建の寄進(途中で豊臣家が滅亡するため、未完のまま終了)もあり、徳川幕府も手厚く保護していました。

また、奈良時代に「長野山護国寺」と称された仏閣も併設され、神仏混合の一大宗教拠点として永らく栄え、明治時代の廃仏毀釈後は、神社として存続し今日に至ります。

なお、かつては本殿が御陵の頂上(後円部の頂上)にありましたが、現在は御陵の外に移動しています。

御陵に入る
誉田八幡宮では、毎年9月15日(旧暦での十五夜)に、本殿のご神体を神輿(おみこし)にのせ、御陵に移すお祭り(秋季大祭)を実施しています。先述のとおり、御陵は通常、宮内庁が立ち入りを厳しく管理しているわけですが、古来から続く伝統を維持する観点から、この日だけはご神体と共に御陵内に人が足を踏み入れることが出来ます。

応神天皇陵
大仙古墳に次ぐ国内第2位の大きさを誇る前方後円墳で、正式には「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」、また天皇陵としては「恵我藻伏崗陵(えがもふしおかのみささぎ)」と称されています。考古学的な確認が取れていないので、実際の被葬者は不明ながら、宮内庁が応神天皇の御陵として治定しています。

応神天皇陵 空中写真   
※By Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省, Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4743478

応神天皇の別名「誉田別尊(ほんだわけのみこと)」が示す通り、誉田の地は応神天皇の生誕地であるとされています。このことから、崩御した天皇をしのび、人々が自ら鍬や鋤を手に持って天皇の故郷に御陵を作り上げた、とされています。

なお、活断層上に墳墓が存在し、過去の2度に亘る直下型地震によって一部が崩落している等、応神天皇陵の状態は良いとはいえない模様です。つまり、今後地震があれば、さらに崩落する危険性を孕んでいます。

世界遺産登録に向けて
昨年、大仙古墳、応神天皇陵を含む堺市、藤井寺市、羽曳野市一帯の古墳群(百舌・古市古墳群)について、文化庁がユネスコ世界遺産への推薦を決めました。近畿2府4県のなかで唯一世界遺産がない大阪府にとっては朗報だったようで、現在2019年での登録を目指し、各団体が活動中とのこと。

世界的な知名度を誇る「巨大なお墓」ピラミッドとは異なり、宮内庁が厳格に管理し、学術調査も含めて人が立ち入ってこなかった御陵をどうやって整備し、海外の機関に理解してもらうのか。
これからの関係者の動きに、注目が集まりそうです。

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