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「坐」と「禁足地」

神社の中には、「○○坐××神社」というように、「坐」という漢字を社名に用いるところがあります。個人的には、「飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)」のように、奈良県にある古社に多いように思います。

また、神様自身の正式名称にも「坐」が使われることがあります。例えば、皇祖アマテラスについて、一般的には「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」とされますが、伊勢の神宮では「天照皇大御神」(あまてらしますすめおおみかみ)と称されています。

「坐」の正体
「坐」は、音読みでは「ざ」、訓読みでは「います/ます」と読みます。現代漢字の「座」とほぼ同じく「座ること」を意味しますが、古代では「座」と「坐」は以下のように使い分けられていたようです。

 座る「動作」⇒「座」
 座る「場所」⇒「坐」

従って、古代より続く神社の名で「坐」が使用される場合は、「神社/神様がいる場所」という意味であることが多く、飛鳥坐神社は「飛鳥の地にある神社」もしくは「飛鳥の地にいる神様」を意味します。また、アマテラスの例では、「坐」が伊勢以外で使用されないことから、御神体が神宮にあることを強調しているものだと推測されます。

「坐」は、単純にその場所に神社があることを示す場合もあれば、何らかの事情でその場所から動けない、或いは動かさないという意思を込めているという説もあります。

社名に「坐」が含まれる神社に赴くと、多くの場合、その土地に根付いた神や有力豪族の本拠地にその氏神が祀られていることがわかります。神社の土地と祀られる神様との関係が強い、ということを示しているようです。

禁足地=外出禁止
一方、石上神宮(奈良県)や椿大神社(三重県)のように、境内に「禁足地」が設けられている神社があります。「神聖な場所であるため、参拝者は立入禁止」と認識され、神社関係者もそのように理解しているケースがありますが、間違いです。

外から中に入ってはいけない「立入禁止」とは違い、「禁足」は「中から外に出てはいけない(外出禁止)」ことを意味します。

神社の誤用ではなく、本来の意味で「禁足地」が設けられているのだとしたら、概ね「神様は、その禁足地から出られない」ことを意味しています。諸説ありますが、神様が禁足地に常駐することに意味があったり、祟る神であるゆえに閉じ込められていたりすると言われています。


社名に「坐」があり、境内に禁足地のある神社は、二重の意味で祭神と土地との結びつきが強い、ということになります。そんな神社を訪れたときは、由緒などに注目してみてください。謎が解けるかもしれません。

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