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道鏡(1)

「弓削道鏡」(ゆげのどうきょう)という人物をご存知でしょうか。

奈良時代に実在し、庶民出身の仏僧でありながら、女性である孝謙天皇の寵愛を受け、天皇に次ぐ「法王」という地位にまで立身出世した人物です。天皇の地位を臨むまでになりましたが、最後には夢破れて地方へ左遷されてしまいます。学校教科書にあまり登場しないため、知らない方も多いかもしれません。

この道鏡、女性天皇の寵愛を受けての出世、そして皇位を奪い取ろうとした話により、歴史において悪役の地位を不動のものにしています。ただ、道鏡に関する史料の殆どが、道鏡を追い落とした藤原氏がまとめた歴史書であり、道鏡のことを悪し様に書き残していることが、今日における悪役扱いの理由かもしれません。

道鏡の生誕地は、現在の大阪府八尾市付近であったとされ、後に孝謙天皇のバックアップにより壮大な寺院「由義寺(ゆげでら)」を建立しています。最近、この由義寺のものとみられる遺跡が発見されたことを機に、道鏡を見直す機運が生まれつつあります。

先日、とある会合でこの道鏡について発表する機会を得ました。今回は、その発表内容をベースに、このブログでもごく簡単にまとめてみたいと思います。

長くなるので、投稿を数回に分けます。第一回目は、道鏡の生い立ちから出家、そして朝廷に出仕するまでの流れです。

生い立ち
道鏡は西暦700年に河内若江郡で出生したとされていますが、正確な生年は今も不明です。また、「道鏡」は出家後の法名であり、本名もわかっていません。ただ、後に道鏡が朝廷内での権力保全のため、実弟を含む河内の弓削一族を重用したこと記録に残っており、弓削氏の出身であることはほぼ間違いないと思われます。

弓削氏は、河内地方の有力豪族・物部氏の傍系にあたり、その名の通り弓を作る職人集団であったと考えられています。しかし、決して身分は高くなく、あくまで官位の無い庶民クラスの一族でした。
(但し、例えば「村長」のように、庶民としては比較的身分が高かったようです。)

出家
道鏡は、地元の寺にいた法師に師事して出家し、「道鏡」の名を授けられました。その後、その法師のつてにより、当時の仏教界において絶大な影響力を持っていた東大寺の義淵(ぎえん)法師の弟子となり、次いで兄弟子である良弁法師に師事します。

このころの道鏡は、サンスクリット語や宿曜占術などの当時における最先端の知識を身に着け、かつ葛城山にこもって修行するなど、学僧・修験者として精力的に活動していきます。また、平城京で天然痘が蔓延した際は、伝染を恐れず患者(おおむね庶民たち)の手当てに努めます。

その後、当時朝廷内で確たる地位を築いていた大僧都・玄昉法師に師事し、やがて朝廷内の仏教道場(内道場)にて、皇族および貴族や女官の病を治す「看病禅師」として出仕するようになります。

つづく。

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