スキップしてメイン コンテンツに移動

遥拝(丹生川上~御神島)

先般訪れた、福井県の「御神島」。
(先般の記事は、こちらをご参照)

別件で近くの天川村に行く用事があったので、その途中で御神島への橋渡しをしてくれた丹生川上神社(下社)さんに、お礼のご挨拶に伺いました。

御神島に入島できなかったけど、島の全景を拝することができるスポットにたどり着けたことなどを報告し、当日神社の本殿に向かって祝詞を唱えて頂いたことについて、宮司さんと社務所の職員さんにお礼を申し上げました。

すると、宮司さんから「入島できないほうが、よかったのだと思います。」との言葉がありました。

宮司さんから聞かせて頂いたお話

  • 神道には、「遥拝」という儀礼がある。遠くの目の前に見えない神様のことを心に浮かべ、その存在の思いの中に意識を向けながら、祈りを伝えることを意味する。
  • 「祈り」は双方向ではなく、常に一方通行。その存在にただ有難さを感じるだけで、何かの利益を求めることではない。
  • 祈りの結果、神様からもたらされる恩恵は、自分がどれだけ深く強く神様に対して有難い気持ちを祈ったかによる。
  • 古来、人々はこの遥拝の力をよく知っていた。だから神域には恐れ多いとしてむやみに近寄らず、そこにおられる神様へ思いをはせ、遠くから一心に拝むことで祈りをささげていた。「遥拝」が、本来神様と人間をつなぐ方法だった。
  • 下社では、丹生山頂の本殿に普段はだれも近づけない。そしてその本殿は、遠く真北の御神島に通じている。下社の祭祀は、実はこの「遥拝」の力を大切にしたもの。人はふもとの拝殿から、遠い山頂の本殿に向かって祈り、その祈りはさらに遠くの御神島に届けられる。その遠さ(深さ)の分だけ、御神島から頂く恩恵は計り知れない。
  • 「御神島」は正確には「おんがみじま」だが、下社では祭神の名前「闇龗(くらおかみ)」にちなんで、「おかみじま」と呼んでいる。島自体が、龗(雨をコントロールする龍神)のご神体だと理解している。

このような有難い話の後で、宮司さんから、入島できていたら、感動したかもしれないけれど、単なるパワースポット巡りに終わっていたかもしれないですね、と改めて言葉を頂きました。

その上で、遠くから島の姿を拝むことで、遠くて見えない神様への思いはより一層強くなったのではないでしょうか。だから、遥拝のほうがきっと神様が喜びますよ、と思いもしなかった視点での考え方を頂いて、改めて神道って奥が深いな、と思いました。

ところで、その島の全景を見られるスポットも、近隣のトンネル工事が完了したら閉じられてしまうようですけどね。。いつまで、島を遥拝できるのか。。

コメント

このブログの人気の投稿

茶道における「おもてなし」の本質

茶道は日本の伝統文化の一つであり、客をもてなす心が大切だと言われています。しかし、私はお点前をする際、少し異なる観点を持っています。それは、「お点前さんは客をもてなす存在ではなく、茶器や茶釜、茶杓たちと同じ『茶を点てる道具の一部に過ぎない』」という考え方です。この視点を持つことで、自我を極力排し、茶を点てる行為そのものに専念するようにしています。 「おもてなし」と「表無し」の違い 一般的に「おもてなし」という言葉は、「客をもてなす」という意味合いで使われます。しかし、私の師匠から教わったのは、「おもてなし」を「表無し」として捉えることの大切さです。 表がなければ裏もない。これが「表無し」の本質です。確かに、誰かを特別にもてなすことは、その人に幸せを感じてもらえますが、同時に他の人をもてなさないという区別が生まれ、不満が募る原因にもなり得ます。茶道の精神において、これは避けるべきことです。 もちろん、相対するお客さんによっては、多少作法に差は生じます。古くは天皇や皇族方、将軍や大名といった特殊な立場の人々、現代では経営者などの立場のある方と私たちのような一般の方とでは、その方々が茶室で窮屈な思いをしないよう、点前の作法や使う茶碗を普段のものと区別して気遣うということはあります。ただ、目の前にある一碗の茶自体が、人を取捨選択、区別しないことは常に意識しています。 茶席で客をもてなさない、という意味では決してありません。お客さんへの気遣いやもてなしについては、アシスタントである半東さん(はんどう:接客役のようなもの。茶会では、お点前さんと半東さんの二人体制で茶席を差配します)にお任せして、茶を供する点前役としては、表も裏もつくらず、ただ目の前の茶を点てることだけを念頭に置いています。半東さんがいないときは、自分一人でお点前ももてなしもするわけですが、それでもお点前中は静寂を保ち、一切の邪念は振り払うようにしています。 無心で茶に語らせる 私たち人間は完璧ではありません。目の前の客に心を注ぐことはもちろんできますが、同時に周囲のすべてに気を配るのは容易ではありません。だからこそ、「表」を意識せず、「裏」を作らず、ただ無心で茶を点てる。点てた茶そのものが、香りや風味などで語り始めるのを待ちます。 茶道において、道具たちは私たちと同じく主役の一部です。茶釜が湯の音を奏で、茶杓が...

Shaolin Temple Europe: Exploring the Intersection of Tradition and Modernity

In the heart of Germany lies a haven of ancient wisdom and martial arts mastery: Shaolin Temple Europe . My recent trip to Germany, accompanied by a friend who is a licensed Qigong trainer, led us to this remarkable place. For her, the opportunity to delve into the teachings of Shi Feng Yi , the esteemed headmaster of Shaolin Europe, was a dream come true. Visiting the temple was the pinnacle of our itinerary, and after much anticipation, we finally set foot within its hallowed grounds. Although Master Shi was away on a journey to spread his profound knowledge of Qigong and Gongfu across the globe, our disappointment was quickly dispelled by the warm welcome we received from a monk named Miao. Miao, hailing from France, exuded a serene aura that spoke volumes of his dedication to monkhood. His very name, bestowed upon him in the tradition of Buddhism, hinted at the depth of his spiritual journey spanning several years. Despite Master Shi's absence, Miao graciously guided us through...

茶道人口の減少

昨年末に地元で、学生時代の後輩と飲みに出かけました。彼は、私が茶道家であることをしっているので、その酒の席で、数年前の茶席での経験を教えてもらいました。 彼は、大学時代の茶道部OBの友人に誘われ、茶道部の現役学生とOBが取り仕切る大寄せの茶会に参加したそうです。茶道初心者の彼が、何とか見様見真似で体験したものの、敷居の高さや作法の難しさ、さらには周囲の雰囲気に押されて、かなり苦労したとのことでした。 例えば、茶席では扇子を携帯するのが一般的です。扇子は、挨拶や金銭の受け渡しの際に敷物として使うなど、礼儀の一環として必要なアイテムです。しかし、持っていなくても別にどうってことはないと私は思うのですが、彼は律儀にも下調べして扇子を携帯したようです。ただ、茶道用の小ぶりなものではなく、普通の仰ぎ扇子を持参したそうで、周囲の人からじろじろ見られ、恥ずかしい思いをしたと言います。 さらに、正座も大きな負担だったそうです。慣れていない人にとって、長時間の正座は非常に辛いものです。気遣いのできる亭主であれば、「脚を崩しても大丈夫です」と声をかけてくれるものですが、今回はそういった配慮がなかったとのこと。それにもかかわらず、茶席は由緒ある寺院で行われ、濃茶席、茶懐石、薄茶席と順々に案内され、一つ一つ丁寧に説明があったそうです。脚の痛みを我慢しながらなのでせっかくの説明も上の空で聞く羽目になり、脚を崩したいことも言い出せず、ひたすら苦しい時間だったと話していました。 この話を聞いて、私は茶道家として非常に心苦しく感じました。確かに正座や扇子といった作法は、茶道を学ぶ者にとって基本の礼儀です。しかし、茶道に馴染みのない人への心遣いや配慮が欠けていたことが、後輩のような初心者にとって茶道が遠い存在に感じられる原因になったのだと思います。 こうした排他的な側面が、茶道人口の高齢化や減少に拍車をかけているのではないかと考えます。茶道は本来、形式や礼儀だけではなく、「和敬清寂」の精神を通じて、人々に安らぎや幸せを提供するものです。しかし、その根幹を忘れ、形式ばかりが先行してしまうと、初心者や若い世代にとっては高い壁となってしまいます。 年末にこのような話を聞けたことは、茶道家として改めて自分のあり方を考える機会となりました。茶席が初心者や一般の方にも楽しめるものになるように、作法や形式に固執す...