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御神島(福井県若狭町)


御神島(おんがみじま)は、福井県若狭町の常神半島の先端から西方500mの沖合に位置する島です。

通常は無人島ですが、常神半島の集落にある民宿などの漁業関係者に頼めば、気象条件等が適している場合に船を出してくれることがあります。

夏場には魚釣りや海水浴などのレジャーを求めて、定期的に観光客が入島するようです。

常に神がいるところ

この島が「御神島」と呼ばれる所以は、629年に欽明天皇が発した勅令により、島内に「常神大明神」を祭る神社を建てたことに遡ります。

古くから、気比神宮のある敦賀と常神半島は海運でつながる「セット」として見られていたようで、現在は島内から半島側の集落に移されている「常神社」の経緯を辿ると、その歴史が古いことがよくわかります。



  • 常神社は、「式内社」(平安時代の神社リスト:延喜式神名帳に掲載されている神社)であることから、少なくとも創建から1,400年は経過。
  • 創始年代は不明だが、986年に常神半島から御神島に遷座し、その後1108年にふたたび半島に戻り、現在に至る
  • 祭神は、気比神宮と同じ「神功皇后」
  • かつては、常宮神社(敦賀市・気比神宮の奥宮)の神官が船で常神社に渡り、祭祀を執り行っていた。


丹生川上神社(下社)とのつながり
奈良県吉野郡下市にある丹生川上神社下社は、水の神様である「闇龗神(くらおかみのかみ)」を祭る神社です。

神話上、初代・神武天皇が最初に祭祀を始めた「丹生川上」の地とされ、古くから「祈雨・止雨」の神様として、歴代の天皇が勅使を送り、直々に奉幣する「二十二社」のひとつでした。(丹生川上神社下社については、以前の記事もご参照ください)

境内には、背面にある丹生山の頂に本殿があり、地上の拝殿とは山腹に配置されている75段の階段でつながっています。

昔は昇段を一切許されず、ふもとから山頂にいる神様を仰ぎ見ていたようです。現在でも通常は昇段できませんが、毎年6月の例祭に限り、一般の人でも階段を昇ることが可能です。

この階段、明治以来長年に亘って使用され老朽化が激しかったこともあり、数年前に大改修しました。

その改修工事の最中、古い階段を撤去したときに、地下に埋められていた古文書が発見されたとのこと。

そこには、本殿からみて真北の方向に歴代の都(橿原宮(橿原神宮)→藤原京→平城京→平安京)があり、その最北端に御神島があることが書かれてありました。


ちなみに、この直線を南に下っていくと熊野本宮があります。
いわゆる「レイライン」というものですね。

最北端:御神島
 ↓
若狭彦・若狭姫神社
 ↓
平安京
 ↓
平城京
 ↓
藤原京
 ↓
橿原宮
 ↓
丹生川上神社(下社)
 ↓
熊野本宮
 ↓
最南端:串本(潮岬)


神武の時代から、歴史書に「丹生川上」と書かれる所以。
昔は本殿に近づくことすら許されなかった意味。


神武天皇が東征の折戦勝を祈願するために祭祀を行い、その直線上にある橿原宮で即位した。その子孫である歴代天皇は、「二十二社」の一つとして丹生川上に直接奉幣していた。さらに、明治時代に入って東京へ移るまで、歴代天皇はこのレイライン上に都を構えた。
(補足として、レイラインから外れて一時的に作られた長岡京や大津京、難波宮は政変などにより短命に終わっている&平安京=京都の時代がすごく長い。。。)

奉職される宮司は、その有難さに身がふるえたそうです。


私見ですが、このレイラインは水の循環を意味しているように考えています。

  • 森(熊野)から流れ出た水は川(丹生川)となって流れ、海(御神島/潮岬)に流れ出る。
  • 海の水は蒸気となり、雨雲となって森に戻り大地を潤す。そしてまた、水は流れていく。
  • その中心に人々(都)。居住区の治水、干ばつ対策は生命にかかわる。そして、人間の70%は水分。人々の水の守り?
現在の皇居である旧江戸城も、徳川家康が大規模な治水工事によって江戸市中の水の流れを整えた上で築城しているといわれていますので、昔から貴人の住む地には「水」の流れが考慮されていたのかもしれません。

****
今回、丹生川上神社下社さんのご協力を得て、御神島を遥拝しました。
気象条件が悪く、漁師さんの船で直接島へ渡ることはできませんでしたが、島の全景が見える場所で遥拝。
遥拝のタイミングで、神社にいる神職の方に本殿を通じて御神島に祝詞を挙げていただき、こちらは電話をハンズフリーにして祝詞を聞きながら、御神島へお礼を述べました。

お世話になった民宿のおかみさんによると、気象条件が落ち着くのは夏とのこと。
次回は、夏に再挑戦します。

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