円通院は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗の寺院です。
19歳でこの世を去った伊達政宗の嫡孫・伊達光宗の菩提を弔うために、政宗の菩提を弔う瑞巌寺の第100代当主が、境内に隣接する場所に設立しました(1647年)。
瑞巌寺参詣者の多くが立ち寄るほか、秋には紅葉の名所として観光客が訪れる名刹でもあります。
伊達光宗
光宗は、政宗の後を継いだ第2代仙台藩主・伊達忠宗と正室・振姫の次男として1627年に生まれ、長男の夭折を受け、3歳で伊達家の世継ぎとなりました。
初代・政宗の孫、かつ2代藩主と正室の子であり、さらにその母の従兄弟にあたるのが徳川幕府3代将軍・徳川家光であったことから、血筋の上で光宗は伊達家世子として申し分なく、仙台藩の次代藩主としての地位が確実視されていました。しかし、1645年、光宗19歳の時、病を得て江戸で帰らぬ人になりました。
仙台藩では光宗の死を悼み、1646年にその御霊を祭る霊廟・三慧殿が建立され、翌1647年にその霊廟を頂く光宗の菩提寺として円通院が開山されました。
三慧殿
光宗の霊廟として建立された三慧殿には、黄金の輝きを放つ金箔の上に、繊細かつ彩色豊かな装飾の数々が施されています。父・忠宗が若年の嫡子を失った悲しみを拭い去り、愛する子供の冥福を強く祈るかのように、きわめて豪奢に作ったともいわれています。
ただ、これだけ豪奢に作られた霊廟も、建立当初から約350年の長きに亘り秘匿され、人の目に触れないようにされてきました。
円通院のガイドによると、その理由は霊廟内に設置された御霊舎の装飾としてあしらわれているバラ、水仙といった西洋由来の花や西洋文化から影響を受けたダイヤやハート、スペードといった文様にあるとのこと。
これらは、政宗存命中に命を受け、使節団として欧州へ渡航した伊達家の家老・支倉常長(はせくら つねなが)が帰国後に持ち帰ったものであり、特にバラはローマ、水仙はイタリアのフィレンツェと、常長が訪れた場所を示唆しているといわれています。
常長は、渡航先でキリシタンとして洗礼を受けましたが、帰国したときには江戸幕府の意向により「キリシタン禁止令」が敷かれていました。彼は、帰国して2年後に失意の中亡くなっています。
もしこの霊廟が、キリシタン禁止令に反するとして幕府から目を付けられてしまったら。。。霊廟を壊されるだけでなく、伊達家の責任も問われるかもしれない。
そういう懸念から、この霊廟を絶対に人の目に触れないようにすることが絶対とされてきたようです。円通院も、単に光宗の菩提を弔うだけでなく、この霊廟を守るために作られた寺院なのかもしれません。
そこまでして西洋の文様を霊廟に施したのも、独自に使節団を考え、幕府に憚らず海外文化への興味を隠さなかった政宗の考えが忠宗に受け継がれ、それを忠宗が光宗に残したかったのかもしれません。
なお、このバラは円通院の花として受け継がれ、境内にはバラ園があります。
本堂
岡田准一さん主演の映画『蜩ノ記(ひぐらしのき)』の撮影にも大悲亭が使用されており、ガイドさんが「あの座布団の上に、岡田君が座っていたんですよ!!」といったときのどや顔とそれに応じて記念写真を撮りまくる観光客婦女子たちの俊敏さ(岡田君とエア共演★)が今も思い出されます(笑)。そういえば、この寺は近年「縁結び観音」で有名となり、多くの女性たちが参拝すると聞いていたので、、、さもありなんと思いました。
華やかな装飾を誇る三慧殿に比べ、禅寺としての落ち着いた佇まいを見せる大悲亭。京都の大寺院にあるきらびやかな装飾に慣れている私からすると、江戸から移築した大工事を思えば大層なものであるとはいえ、寺院のメインとなる本堂としてはいささか質素な印象を受けました。もちろん、光宗の好みを取り入れた意図もあるでしょうが、もしかすると三慧殿を守るためのカモフラージュだったのかも、と個人的に思います。
境内には、心の字を模した「心字池」や庭園もあり、オリジナルの数珠づくりを体験できるコーナーもあったりと、見どころの多い円通院。
松島にお越しの際は、お隣の瑞巌寺だけでなく円通院にも足を運ばれてはいかがでしょう。
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