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白に対する考察


2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」において、
安政の大獄を強いた井伊大老と主人公の天璋院(篤姫)の対立関係が描かれる中で、将軍家への輿入れの際に篤姫の母代わりを務めた近衛家の老女・村岡局に関するエピソードが盛り込まれています。


幕府転覆をはかる朝廷の密勅を手助けしたとの疑いで奉行所に捕らえられ、気落ちしていた村岡に届けられた天璋院からのお見舞い。それは、天璋院の婚儀装束である大切な白い袿(うちき)。天璋院の真意を察して元気を取り戻した村岡は、奉行の詮議にその袿を着て臨み、堂々とふるまうという演出が成されています。

白い袿を見た奉行が「観念して、罪を白状するための装束か」と問えば、村岡は「無実を証明できる、おめでたい日の装束」と応答。逆上した奉行が無理やり脱がそうとすると、村岡は「これは、先代将軍の正室・天璋院からもらったものであり、葵の御紋と同じもの」とさわやかに反論。白い袿を通して徳川将軍家がバックについていることを示し、詮議は終始村岡のペースで進む・・・という展開です。
村岡役を演じられた故・星由里子さんの凛とした佇まいと京言葉がとても印象に残っています。

・・・

私の「白」への印象は、このシーンに凝縮されています。
罪の「白」状を求める奉行と、村岡が示す潔「白」、村岡にとってめでたい日の正装、そして天璋院からのお守りとしての意味を持つ「白」い袿。村岡が反論に転じた際に、庭から差し込んでくる「白」い日差しの演出。
同じ「白」でも、このシーンにこれだけ様々な意味が込められています。


白と聞くと、なんだかさわやかできれいな印象です。
しかし、もしかすると日本ではもともと忌むべき色として見られていた印象をもっています。

 

一般的に、白が清いのはわかりやすいです。和洋問わずに、花嫁衣裳として白いものが選ばれやすいですし、スピリチュアル的には浄化や神様の色ともいわれている。ファッションでも、いろいろなコーディネートに合わせやすい代表的な色でもある。

その反面、亡くなった方の死装束も白色ですし、時代劇などでもよく見られますが、昔の喪服は白装束でした。また、汚れが目立ちやすいので、ファッションにも気を使いますしね。さらに、精製した白砂糖や塩、白米は精製前よりも栄養素が少なくなっていることでも有名です。

加えて、「白」を使った日本語の単語や慣用句を見てみると、印象の悪いものが圧倒的に多いことがわかります。

例:白昼夢、白痴(※)、白々しい、白ける、白を切る、鼻白む、白眼視(冷たい目線を送ること)(※)差別用語なので不適切ですが、あえて例示しました。


潔白とか白状するとか、真実を示し隠し事のない表現として白が選ばれるのも、そもそも悪いことを前提とした表現ですし(悪いことがなければ、潔白も白状も使われない言葉ですから)。また「白は浄化の色」というのも、穢れがあるから必要なわけですし。どうも罪とか穢れとか、印象の悪いものの存在を前提にして、それに対抗するかのような表現が多いですね。

さらに花嫁衣装が白いのは、「色のついていない(=ほかに異性との交際関係のない)ことを示す」とか「嫁ぎ先の色に染まるため」とされていて、まるで婚家に花嫁さんを封じるかのような意味合いが含まれています。

 

清濁併せ持つ「白」
白の特徴は、以下の通りにまとめられます。

  • 少しでも違う色が混ざれば、もはや白とはいえなくなるデリケートさ
  • 違う色に染まりやすい純朴さ
  • 独身を終わらせる花嫁衣裳、生涯の終わりを示す死装束=死と再生
  • 修行僧や神職、亡くなった人や葬儀に参列する人が喪服として着用する白装束


個人的には、悪しきものに最も近づきやすい無垢な「白」に、「清め」という意味を持たせて悪しきものに侵されないようにした。。。と考えています。

スピリチュアル的に言うと、「清める」という言霊によって無垢で善悪の知らぬ子供のような「白」に強さを与えたのかもしれません。


白は清濁併せ持つ、稀有な色であると理解して普段の生活に取り入れたいですよね。あまり白に肩入れしすぎると、無垢すぎるので色の濃い人(外見ではなく、個性が強いとか、嫉妬の念を持つ意味)の攻撃にあい、染まりやすい。ファッションやインテリアなどでは、無垢な白をカバーするような色の服や小物とセットでコーディネートして、白の持つ弱点を補うといいかもしれません。

さらには、あえて悪しきもののすぐそばにいて、こちらに寄ってこないように守護してくれるという意味では、お守りとか魔除けとしては最強のように思います。それこそ、村岡さんの「白い袿」のように。

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