三嶋大社は、静岡県三島市にある神社で、山の神であるオオヤマツミと「えびすさん」の愛称で親しまれるコトシロヌシを総称した「三嶋大明神」を主祭神としています。創建の時期は不明ですが、延喜式内社(平安時代の神社リスト「延喜式神名帳」に名前のある神社のこと)であることから、少なくとも1,200年の歴史を有しています。
三嶋=御島=伊豆諸島
「ミシマ」という名前は、「御島」、つまり伊豆諸島を指しているとされています。三宅島をはじめ、伊豆諸島では常に噴火の危険性を孕んでおり、古代の人々にとって三嶋大社は、これらの噴火を鎮めるための信仰の場とされていました。
延喜式神名帳は、当時日本国内にあった神社を国別(例:肥前国、肥後国、山城国...)で区分けしてリストアップしたものですが、そのうち「伊豆国」のリストには、三嶋大社(と比定される神社)を含む88社の神社の名が列挙されています。ちなみに、伊勢の神宮を有する伊勢国や出雲大社の出雲国の神社数が各々200近くであり、また朝廷に程近い京都・山城国などが100社くらいであったことを考えると、伊豆国はこれらに次ぐ数の神社を抱えていたことになります。如何に当時の人々がミシマの噴火を「神の業」として畏れ、鎮めようとしていたのかが神社の数によって表わされているかのようです。
三嶋大明神
三嶋=ミシマ=伊豆諸島という関連に基づくと、主祭神の「三嶋大明神」は「伊豆諸島の大明神」と言い換えることが出来ます。 上述の通り、「三嶋大明神」は異なる神2柱を総称したものですが、元来は伊豆諸島自体の神性を示す土着の神だったと考えられています。
その後、後世になって「噴火」を鎮める信仰に関連して「山の神・オオヤマツミ」と見られるようになり、さらに江戸時代には「コトシロヌシ」説が有力となる等、創建以来の歴史において、三嶋大明神の正体は二転三転しています。
結局は、有力であった2つの神が総称される現在の形におさまっていますが、謎の主祭神・三嶋大明神を巡っては現在も諸説が並立しており、明確に特定されているわけではないようです。
(なお、同じ「オオヤマツミ」を祀る愛媛県・大三島の大山祇神社とのつながりを示す説もあります。)
三嶋大社と源頼朝
三嶋大社は、源氏とのつながりが深いことでも有名です。
平治の乱(1160年。平家台頭のきっかけとなった政変)によって平家に敗れた後、源頼朝は亡父の後をついで源氏の棟梁となり、勝者・平清盛の命令により伊豆に配流となりました。伊豆での生活は20年近くに及びましたが、その間頼朝は三嶋大社を深く崇敬し、源氏復興を祈願していました。その後、三嶋大明神のご神託をきっかけに挙兵し、最後には壇ノ浦で平家を滅亡させ、「征夷大将軍」として鎌倉幕府を開いたとされています。鎌倉幕府開設後、三嶋大社への崇敬は幕府の公務となり、やがて多くの武家・武将からの尊崇を集めることとなります。
毎年8月17日に敢行される「流鏑馬神事」は、三嶋大社の重要な祭事(特殊神事)であり、武士とのつながりを現代に示すものでもあります。もともと頼朝時代にスタートした天下泰平・五穀豊穣を祈る神事がそのルーツですが、残念ながら明治時代に一度途絶してしまいます。しかし、多くの人々の願いを受けて1984年に再興され、頼朝時代の風習を踏襲する厳粛な神事として現代に受け継がれています。
また、この神社には頼朝の正室・北条政子が奉納した「梅蒔絵手箱」があります。これは政子愛用の化粧箱とされ、装飾に鎌倉期の技法を使用していることや、箱の中身も残存する手箱として最古のものであることから、国宝に指定されています。現物は東京国立博物館に寄託されており、三嶋大社の宝物館にはレプリカが展示されています。
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