スキップしてメイン コンテンツに移動

富士信仰

日本の山岳信仰は、信仰の対象である山の種類に応じて、ざっくり以下の2種類に分けられます。

①浅間(せんげん)型
富士山、あるいは北越地方の白山や立山など、高く険しい山岳を神体山とする信仰。

②神奈備(かんなび)型
大神神社(奈良県桜井市)の三輪山のように、平野部の小山や丘を対象とする信仰。

以上は山の種類で区別したものですが、これに山の役割や祭祀方法での分類を加えると、非常に多彩な信仰形態に枝分かれしていきます。山、そして人の数だけ、信仰があるのでしょう。

今回は、浅間型の山岳信仰の中でもっとも有名である、富士山を神格化した「富士信仰」、その中でもよく耳にする「浅間神社」での信仰(浅間信仰)について触れたいと思います。

浅間神社
浅間(せんげん)とは、富士山の古名です。もともとは、過去の山荘立てこもり事件で有名な長野県の浅間山(あさまやま)と同様、「火山」を示す名詞であり、やがて東海以東では富士山のことを特定するようになったと考えられます。

浅間神社は、東海を中心に点在する約1,300社の同名神社を指し、静岡県富士宮市にある「富士山本宮 浅間大社」がその総本宮とされています。主祭神は、富士山の山頂に鎮まるコノハナサクヤヒメ(浅間大明神)であり、多くの場合、縁のある神様(夫・ニニギノミコト、父・オオヤマツミ等)が配祀されています。
また、浅間大社には本殿がありますが、神社によっては本殿を持たず、富士山自体を拝み奉る祭祀を行うところもあります。

なお、富士山の八号目以上は浅間大社の社有地であり、山頂には奥宮があります。また、火口周辺は「大内院」とよばれ、最も神聖な場所として一切の立ち入りが禁止されています。(そもそも、富士山は現役の活火山ですので、火口に近づくこと自体が危険です。)

コノハナサクヤヒメ
漢字で「木花咲耶姫」(日本書紀)と表わし、見目麗しい桜(木の花)の化身とされています。父である山神・オオヤマツミが、数ある山岳の中から富士山を与えたという伝説から、富士山に鎮まる神として祭られるようになりました。

神話では、皇統に寿命があることの由来として、コノハナサクヤヒメが登場します。
その昔、天孫・ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメに求婚した際、父・オオヤマツミは姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせました。しかし、醜女であったイワナガヒメは追い返され、コノハナサクヤヒメのみが妻に選ばれたことにオオヤマツミは激怒します。
オオヤマツミは、二人の姫に願をかけており、イワナガヒメの「岩」がもつ永遠の命とコノハナサクヤヒメの「花」が示す華やかさの両方がニニギとその子孫にもたらされるはずだったのですが、ニニギが命に限りのある花だけを選んだために、子孫が寿命を背負うことになったとされています。

また、嫁いだその日に懐妊し、ニニギから他の男との姦通を疑われたことから、身の潔白を証明するために、産屋に火を放ち、業火の中で子供を生んだとされています。
こうした由縁から、コノハナサクヤヒメは火の女神とされ、また子宝や出産の神様として崇敬を集めています。

コノハナサクヤヒメの矛盾
富士山は今も活動する火山ですが、同時にその雪解け水が周辺地域の水源となっており、「浅間」の名には、湧き水の水源である「浅隈(あさくま)」の意味が含まれているとされています。いわば、富士山は「火を吹く水源」ともいうべき存在です。

オオヤマツミがコノハナサクヤヒメに富士山を与えたのも、実は水の無い富士山を潤し、噴火を抑えることが目的であったとの説や、浅間大社自体も第11代垂仁天皇が噴火を鎮める目的で、富士山の湧き水が多く流れ出る土地に建てたとされることからも、浅間神社での信仰では、コノハナサクヤヒメは水を以て火を制する水徳の神として認識されていることがわかります。

つまり、浅間信仰の本髄は富士山本体というよりも、富士山に仮託した「水」にあるのでしょう。そしてそれは、噴火への恐れと水の恵みに対する感謝が共存する、当時の人々の複雑な感情を投影しているのだと考えられます。

コメント

このブログの人気の投稿

茶道における「おもてなし」の本質

茶道は日本の伝統文化の一つであり、客をもてなす心が大切だと言われています。しかし、私はお点前をする際、少し異なる観点を持っています。それは、「お点前さんは客をもてなす存在ではなく、茶器や茶釜、茶杓たちと同じ『茶を点てる道具の一部に過ぎない』」という考え方です。この視点を持つことで、自我を極力排し、茶を点てる行為そのものに専念するようにしています。 「おもてなし」と「表無し」の違い 一般的に「おもてなし」という言葉は、「客をもてなす」という意味合いで使われます。しかし、私の師匠から教わったのは、「おもてなし」を「表無し」として捉えることの大切さです。 表がなければ裏もない。これが「表無し」の本質です。確かに、誰かを特別にもてなすことは、その人に幸せを感じてもらえますが、同時に他の人をもてなさないという区別が生まれ、不満が募る原因にもなり得ます。茶道の精神において、これは避けるべきことです。 もちろん、相対するお客さんによっては、多少作法に差は生じます。古くは天皇や皇族方、将軍や大名といった特殊な立場の人々、現代では経営者などの立場のある方と私たちのような一般の方とでは、その方々が茶室で窮屈な思いをしないよう、点前の作法や使う茶碗を普段のものと区別して気遣うということはあります。ただ、目の前にある一碗の茶自体が、人を取捨選択、区別しないことは常に意識しています。 茶席で客をもてなさない、という意味では決してありません。お客さんへの気遣いやもてなしについては、アシスタントである半東さん(はんどう:接客役のようなもの。茶会では、お点前さんと半東さんの二人体制で茶席を差配します)にお任せして、茶を供する点前役としては、表も裏もつくらず、ただ目の前の茶を点てることだけを念頭に置いています。半東さんがいないときは、自分一人でお点前ももてなしもするわけですが、それでもお点前中は静寂を保ち、一切の邪念は振り払うようにしています。 無心で茶に語らせる 私たち人間は完璧ではありません。目の前の客に心を注ぐことはもちろんできますが、同時に周囲のすべてに気を配るのは容易ではありません。だからこそ、「表」を意識せず、「裏」を作らず、ただ無心で茶を点てる。点てた茶そのものが、香りや風味などで語り始めるのを待ちます。 茶道において、道具たちは私たちと同じく主役の一部です。茶釜が湯の音を奏で、茶杓が...

茶道人口の減少

昨年末に地元で、学生時代の後輩と飲みに出かけました。彼は、私が茶道家であることをしっているので、その酒の席で、数年前の茶席での経験を教えてもらいました。 彼は、大学時代の茶道部OBの友人に誘われ、茶道部の現役学生とOBが取り仕切る大寄せの茶会に参加したそうです。茶道初心者の彼が、何とか見様見真似で体験したものの、敷居の高さや作法の難しさ、さらには周囲の雰囲気に押されて、かなり苦労したとのことでした。 例えば、茶席では扇子を携帯するのが一般的です。扇子は、挨拶や金銭の受け渡しの際に敷物として使うなど、礼儀の一環として必要なアイテムです。しかし、持っていなくても別にどうってことはないと私は思うのですが、彼は律儀にも下調べして扇子を携帯したようです。ただ、茶道用の小ぶりなものではなく、普通の仰ぎ扇子を持参したそうで、周囲の人からじろじろ見られ、恥ずかしい思いをしたと言います。 さらに、正座も大きな負担だったそうです。慣れていない人にとって、長時間の正座は非常に辛いものです。気遣いのできる亭主であれば、「脚を崩しても大丈夫です」と声をかけてくれるものですが、今回はそういった配慮がなかったとのこと。それにもかかわらず、茶席は由緒ある寺院で行われ、濃茶席、茶懐石、薄茶席と順々に案内され、一つ一つ丁寧に説明があったそうです。脚の痛みを我慢しながらなのでせっかくの説明も上の空で聞く羽目になり、脚を崩したいことも言い出せず、ひたすら苦しい時間だったと話していました。 この話を聞いて、私は茶道家として非常に心苦しく感じました。確かに正座や扇子といった作法は、茶道を学ぶ者にとって基本の礼儀です。しかし、茶道に馴染みのない人への心遣いや配慮が欠けていたことが、後輩のような初心者にとって茶道が遠い存在に感じられる原因になったのだと思います。 こうした排他的な側面が、茶道人口の高齢化や減少に拍車をかけているのではないかと考えます。茶道は本来、形式や礼儀だけではなく、「和敬清寂」の精神を通じて、人々に安らぎや幸せを提供するものです。しかし、その根幹を忘れ、形式ばかりが先行してしまうと、初心者や若い世代にとっては高い壁となってしまいます。 年末にこのような話を聞けたことは、茶道家として改めて自分のあり方を考える機会となりました。茶席が初心者や一般の方にも楽しめるものになるように、作法や形式に固執す...

薄茶と濃茶

茶道において、抹茶は「薄茶(うすちゃ)」と「濃茶(こいちゃ)」の二つの飲み方があります。そして、この二つには使用する茶葉にも明確な違いがあります。 薄茶用と濃茶用の茶葉の違い 抹茶の茶葉は「碾茶(てんちゃ)」と呼ばれ、日光を遮った茶畑で栽培され、茶葉を揉まずに乾燥させたものを石臼で挽いて作られます。その中でも、濃茶に使われる茶葉はより丁寧に栽培・選別されており、旨味や甘みが強く、渋みが少ないのが特徴です。一方で、薄茶用の茶葉は比較的リーズナブルなものが多く、さっぱりとした風味のものが主流です。 また、濃茶は少量の抹茶に対してお湯を少しずつ加え、練るようにして仕上げるため、茶葉そのものの味わいがダイレクトに出ます。そのため、上質な茶葉が求められます。逆に、薄茶は泡立てることでまろやかさが生まれ、多少渋みがあっても美味しくいただけます。 初めての点前指導では濃茶用茶葉を 私は、出稽古などで誰かに点前を教えるとき、まずは平点前(薄茶点前)から始めます。その際、最初に相手に飲んでもらう薄茶には、実は濃茶用の茶葉を使います。これは、抹茶そのものの美味しさを純粋に実感してほしいからです。上質な茶葉を使うことで、初めての人でも抹茶の旨味と甘みを感じやすくなります。 その後の稽古では、リーズナブルな薄茶用の茶葉に切り替えます。これにより、点前の技術次第で茶の味が変化することを体感してもらいます。不思議なもので、どんな茶葉でも点前が上達すると、茶の味がまろやかになるものです。私は、その変遷を最も感じやすい茶葉の種類を選び、稽古を進めています。 このアドバイスをくれたのは、ひいきにしているお茶屋さんの販売員の方。濃茶用にも薄茶用にもそれぞれランクがあるのですが、「濃茶用の一番リーズナブルなランクは、薄茶用の最上級品と同じ価格。でも、濃茶用のほうがおいしい」とのことで、「ちょっといい茶席での点前は、リーズナブルな濃茶用を薄茶にすると良い」と教えてもらったのがきっかけです。 先日の茶席では「少し贅沢に」 先日、友人の酒井さんが主宰する京都・当時近くにある茶房「間」で開催した茶席では、お茶屋さんのアドバイスも踏まえ、あえて濃茶用(宇治茶の名門、上林三入さんの「後昔」)の茶葉を薄茶にして提供しました。この日のコンセプトは、「少し贅沢に」。濃茶用の茶葉を薄茶として点てると、甘みと旨味が引き立ち、...