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櫻井神社・櫻井大神宮

櫻井神社/大神宮は福岡県糸島市にあり、同じ境内に櫻井神社、櫻井大神宮という二つの神社が併設されています。両神社とも、福岡藩第2代 黒田忠之公の発願によって江戸時代に創建されており、日本の神社の中では比較的新しい部類に入ります。

創建の由来は、1610年(慶長15年)の6月1日未明に発生した大雷雨に遡ります。櫻井神社の伝記によると、嵐の最中、雷の一閃により岩戸洞窟の扉が開いて神霊が現れ、その後地域住民に次々と霊験あらたかな事象が発現しました。噂を聞きつけた藩主・忠之公は、二度に亘り使いを出して確認したところ、二度ともご神意に触れたため信仰心を深め、この岩戸洞窟の地に壮大な社を建てることを決意した、とあります。

忠之公はまず、岩戸洞窟より西南にある高台に神明造の神殿を2つ作り、各々に伊勢の内宮(アマテラス)・外宮(トヨウケヒメ)の分霊を祀る櫻井大神宮を1625年(寛永2年)に創始しました。その際、伊勢の神宮と同じく20年ごとの遷宮を実施することとしていましたが、1866年(慶応2年)の第13回を最後に、現在は途絶しています。

その7年後、1632年(寛永9年)に岩戸洞窟の神霊を祀る櫻井神社が建設されました。経年による傷みはあるものの、当時の社殿がいまも現役として使用されています。

「けがれ」を祀る神社
櫻井神社のご祭神は、神直日神(かむなおびのかみ:カムナオビ)、大直日神(おおなおびのかみ:オオナオビ)、八十禍津日神(やそまがつひのかみ:マガツヒ)の3柱です。神話では、亡くなった妻に会うために黄泉の国を訪れたイザナギが、黄泉から帰還後に川原で体を洗い清めていたとき、イザナギの体から離れた「黄泉の穢れ(けがれ)」を神格化したのがマガツヒ、その穢れを清める役目として発現したのがカムナオビ/オオナオビの2柱であったとされています。なお、八十禍津日の「八十」は数字ではなく、「数が多い」という意味です。

穢れというのは、物理的な汚れよりも「気枯れ(けがれ)」、つまり気分が悪くなったり、落ち込んでしまう状態を指します。神道では、我々の生活で起き得る様々な悪事や苦悩は、こうした気枯れによって引き起こされると信じられています。これを解消するために、人によっては神社でお払いを受けたり、祝詞を唱えたりします。

櫻井神社では、この「穢れ」を神様として祀っているので、違和感を覚える方がいるかも知れません。ただ、ここにも日本の信仰のあり方が存在します。それは、忌避するよりも、神様として祀り称えることで穢れから守ってもらおう、というもので、八坂神社の祇園祭における「御霊信仰」の考え方に似ています。

直日(ナオビ)
「穢れ」や「禍」の対比となるのが、「直日(ナオビ)」という考え方です。神道では、行き過ぎを改め、悪いものを元に戻す(直す)という観点を指します。また、穢れを祓い清めるという意味から、清浄を貴ぶ現在の神道の根幹をなしている考え方でもあります。この「ナオビ」を神格化しているのが、神直日/大直日の2柱、あるいはこれらを総称した「直日神」という1柱の神様です。穢れた状態から回復させる薬や治療のような位置づけで、マガツヒとセットにされているのだと思います。

民俗学者の折口信夫氏は、マガツヒとナオビは表裏一体に存在していると述べています。つまり、良いことも悪いことも、元々は同じであるという考え方です。この点からも、品行方正で清廉な姿勢・行いによって穢れを防ぐという道徳的な教義としてもナオビの考え方が発展していきます。

サクライ
サクライという名前により、人気グループ「嵐」のメンバーである櫻井翔さんやMr. Childrenのボーカル・桜井和寿さんが想起されることから、多くのファンの方々が櫻井神社に参拝しているようです。神社内の絵馬殿には、2人のサクライさんの健勝を祈る内容から、コンサートのチケットが当たりますようにとのお願いまで、それぞれのファンによる熱い思いが記された絵馬が数多く奉納されております。

これだけの方に、マガツヒとナオビという究極コンビの前で祈られる二人の有名なサクライさんの活躍に、ますます目が離せなさそうです。

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