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お盆に何をするのか。

今年も、お盆の季節がやって参りました。

お盆といえば、何を思い浮かべますか。帰省、親族での集まり、お墓参り、或いは帰省ラッシュや旅行会社シーズン料金などでしょうか。
お盆休みがある方もいれば、休み無く働いている方もいると思います。

さて、一般的には先祖供養やお墓参りのイメージから、お盆が仏教行事であると広く理解されています。でも、実際は「神道を原料として仏教というスパイスで味付けしたイベント」というのが正解です。

そこで今回は、毎年当たり前にやってきて、何気なく過ごすこの「お盆」について考えてみたいと思います。

仏教的観点:先祖供養
仏教では、お盆のことを正式には盂蘭盆会」(うらぼんえ)と呼びます。その昔、釈迦の弟子が、地獄で飢餓に苦しむ母を救おうと、釈迦の教えに従い、旧暦7月15日(現在の8月15日頃)に修行僧たちへ食事を振舞った功徳により、無事に母を往生させた説話が由来です。(地獄で逆さ吊りにされている母を救う、という説もあります。)

その後、この馳走を毎年同じ時期に継続して功徳を積むことで、先祖は苦しみから解放され、現世の人々が幸せになると釈迦が教えたことが、お盆の起源となっています。

神道的観点:祖霊崇拝
一方、神道にも祖先の御霊(祖霊)を祭る「祖霊崇拝」という信仰があります。祖霊とは、現世の子孫と家を祝福し、厄災や不幸から守ってくださる「神様」です。皇室の祖霊(皇祖)を祀る伊勢の神宮や、藤原氏の祖霊(氏神)を祀る春日大社などの例や新年の初詣(本来は、祖霊を家にお招きして、新年の平穏無事を授けて頂くことが目的)をみても、祖霊崇拝は神社信仰の原型のひとつとも言えます。

日本では、この信仰に基づいて、毎年2回、夏と冬に祖霊を祀る慣習がありました。今でも神式を通すところもありますが、一般的には仏教の伝来以降、盂蘭盆会の考え方が浸透するに従い、「夏=お盆、冬=初詣(新年祭)」という現在の形態に定着していきます。

先祖供養≠祖霊崇拝
先祖供養と祖霊崇拝は、「似て非なるもの」です。

仏教では、生きている間の善行や修行の有無によって、死後、そして次に転生する際の身分が決まるという考え方(因果応報/輪廻転生)があります。先祖供養はこの考え方をベースに、生前の悪行によって苦しみに苛まれる先祖を救い、その善行によって現世と死後の幸せを得る、というサイクルで成立します。その出発点は、先祖への慕情に加え、現世での不満や不安感、「幸せでありたい」という願望にあると言えます。その意味では、救われたい先祖と幸せになりたい子孫は、「Win-Winなビジネス関係」のようです。

対して祖霊崇拝は、現世の我々が今を生きていることを祖霊に感謝し、祖霊は「神」として子々孫々の代までを家を守る役割を担う関係性に基づく信仰です。先祖供養と同じく「現世」を出発点としていますが、異なるのは「現世への満足と感謝」がベースにあることです。

結局、お盆に何をするのか。
日本のお盆には、一見すると読経やお墓参り、卒塔婆など仏教色が濃く出ています。しかし、御霊迎え/御霊送り、ナスときゅうりで作る精霊馬といった古くからの慣習に鑑みると、その実態は先祖の御霊を家に迎えて家族と共に過ごしてもらい、時には料理などでもてなすという「祖霊崇拝」であると考えられます。あるいは、先祖への供養というより「慰労」に近いのかもしれません。

以上から、形式は何であれ「先祖への感謝」がお盆において一番大切なことだとわかります。とすれば、きちんと準備が出来なくても、休み無く働いていても、お盆中にほんの1秒でも先祖に思いをはせ、「おかげさま」と思うだけでも十分なのだと思います。

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