主祭神は、和合・調停の神徳を持つキクリヒメ(白山比咩大神)で、平野部の「本宮」、白山頂点の御前峰(ごぜんがみね)にある「奥宮」の2つの社殿で祀られています。また、下述する神話に基づき、国土創造の夫婦神(イザナギ、イザナミ)を配祀しています。
山岳信仰
古代の人々にとって、山は狩猟や植物の栽培・採取の場、或いは水源として恵みをもたらす一方、噴火等天災によって生命を脅かす存在でもありました。人々は、このような性格を持つ山々に対して「恩顧(感謝)」と「畏怖」の念を抱き、神聖視するようになります。こうした信仰形態を、神道では「山岳信仰」と呼びます。
当初は、単純に山や丘を崇拝する形態でしたが、次第に富士山、三輪山といった特定の山(神体山)に対する信仰へと変化していきます。そして、大和朝廷が台頭し、記紀の編纂によって神話が確立したことで、これらの神体山が「オオヤマツミ(大山積)」、「オオヤマクイ(大山咋)」といった、一種の人格を持つ神が鎮座する場所とされていきます。
また、仏教が伝来した奈良時代以降、仏教の山中修行と神道の山岳信仰がミックスされた「修験道」という新しい信仰が生まれ、多くの修験者(山伏)たちが修行・信仰のため、従来は立入禁止であった神体山の中へ足を踏み入れるようになっていきます。
白山と神仏習合
白山は、石川、福井、富山、岐阜の4県にまたがる、標高2,702mの山です。ほぼ一年を通じて雪をいただくその姿は、北越各地域、また日本海の洋上からものぞむことが出来ます。古くより、平野部の人には農業に必要な水の神、海で働く人には航海中の自船や漁場の位置を示す道しるべの神として崇拝され、同時に亡くなった人の御霊が鎮まる聖域とも信じられていました。
白山 (※) |
717年、越前国出身の仏僧・泰澄が入山し、山中で霊威(国父神・イザナギの御霊)に触れた後、修験道に基づく信仰を開始(開山)したとされています。開山により、白山に対する原始的な信仰が体系化され、現在も続く白山信仰が発展していくこととなります。なお、2017年は開山から1,300年目の節目となります。
また、開山後、多くの修験者を受け入れるべく、石川(白山比咩神社)、岐阜(長滝白山神社)、福井(平泉寺白山神社)を基点とした3つの登拝路が整備されました。これらの神社は、神仏混合、明治時代の廃仏毀釈を経て、現在もそれぞれが存続しています。
キクリヒメ
漢字で「菊理媛」と表される女神で、白山比咩神社では「生きとし生けるものの"いのち"の祖神」とされています。しかし、この女神は古事記には登場せず、日本書紀でも、本筋ではない、「一書(あるふみ)に曰く」という但書が付けられた「異説」にのみ登場するなど、正体はベールに包まれています。
その日本書紀の「一書」では、イザナギが死に別れた妻・イザナミ(国母神)を追って黄泉国へ赴くものの、腐乱した妻の遺体を発見するやいなや、恐怖で逃げ出します。追ってきたイザナミと黄泉津比良坂(よもつひらさか:この世と黄泉の境目)で言い争っていると、どこからともなくキクリヒメが現れ、二人の間を取り成した、とされています。この神話から、「キクリ」とは「ククリ(=括り)」の音が変化したもので、物事を括る、つまり和合や調停の神として認識されるようになりました。
しかし、キクリヒメが白山の化身である理由は明確ではなく、泰澄が山中で接したのも「イザナギの御霊」とされています。創建からかなり年代を経た14~15世紀の書物に、はじめて「白山=キクリヒメ」という記載が登場し、江戸時代にはそれが定着したようですが、根拠は一切示されていません。
謎は深まるばかりですが、創建から2,100年以上、また開山から1,300年を経た現在でも、白山比咩神社と白山が、多くの人々が守り伝えてきた信仰の地であることには変わりありません。
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