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ロスリン礼拝堂


ロスリン礼拝堂は、スコットランドの首都・エジンバラ近郊にあるカトリック系の礼拝堂です。1446年にウィリアム=セント=クレア候によって設立され、現在もその子孫によって管理されています。

2004年の世界的ベストセラー「ダヴィンチ・コード」で重要な舞台として描かれ、2006年の映画版でも撮影に使用されました。

テンプル騎士団と聖杯
「ダヴィンチ・コード」の原作者ダン・ブラウン氏は、そのストーリーを考えるにあたり、この礼拝堂の伝説に注目しました。それは、テンプル騎士団との関係性です。

テンプル騎士団は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会(修道士による武装集団)です。当時、イスラム勢力との対立が激化し、キリスト教会も十字軍などの戦闘集団を以って、重要拠点を防衛していました。こうした時代の中で、テンプル騎士団は聖地エルサレムに本拠を構えて成立し、主にエルサレムへの巡礼者の保護を担いました。

その後、エルサレム防衛の失敗やフランス王の策略などもあってローマ教皇から「異端」とみなされて弾圧され、テンプル騎士団は壊滅しました。ところが、ローマ教会から距離を置いていたスコットランドでは、弾圧は起きませんでした。
こうして難を逃れたテンプル騎士団のひとりが設立したのが、ロスリン礼拝堂です。

古くより、エルサレムとの深い関係から、テンプル騎士団がキリスト教の秘宝「聖杯」を隠し持っているとの噂は絶えませんでした。ダン・ブラウン氏は、迫害を免れ現在まで血筋の続く元・騎士団メンバーの礼拝堂にそのヒントがあると考え、足しげくロスリン礼拝堂に通いながら「ダヴィンチ・コード」の執筆を始めたといいます。物語の中では、「聖杯」の正体が判明するクライマックスで、この礼拝堂が登場します。

「変な」装飾たち
ロスリン礼拝堂の特徴は、礼拝堂の「装飾」にも表れています。外装は一般的なのですが、内部の装飾はまるで訪問者を試すかのように、不思議なデザインのものが多いのです。

特に有名なのが、「グリーン・マン」(ケルト神話に登場する植物の精霊)です。葉や茎、幹など植物の部分を使用して人顔を表すことが特徴の装飾で、欧州各地の史跡で見られます。中でも、ロスリン礼拝堂のグリーンマンは表情が特徴的で、礼拝堂が販売するお土産グッズの中に、グリーンマンのぬいぐるみがあるくらいです。ただ、あまりにもブサイクユニークな表情であるため、買う人がいるのかどうか疑ってしまいます。

他にもたくさんの装飾があるのですが、「ダヴィンチ・コード」のヒット以来、訪問客が後を絶たず収拾がつかないとのことで、現在は内部での写真撮影は禁止されています。ご覧になりたい方は、自ら足を運ぶしかありません。

エジンバラの市街地からバスが一日に数本出ていますので、アクセスはそんなに悪くありません。ただ、周辺は田園地帯ですので、礼拝堂以外の観光スポットに乏しいのが難点。礼拝堂の見学が終わったら、バスでエジンバラに戻るのが一番です。

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