神社参拝時に神様に不敬とならないように、マナーに気を付ける方が結構多くおられます。
それだけ神様を大切に思ってくれているということだから、個人的にはこうした方々を見るとうれしく思います。
その反面、その「正しさ」にとらわれすぎて、あれこれ細かく確認したり、少し間違えただけで不安になってしまう方も多いと感じられます。
参拝マナーで不安に思ったときは、まず神社で奉職されている神職さんや巫女さんに聞いてみるとよいでしょう。
また、スピリチュアル系の勉強をされていて、独自の参拝方法をお持ちの方であれば、それを実践されてもよいと思います。
大事なことは、神前で正直な姿を見せることです。それさえできれば、よほど不敬でない限りどのような方法でも問題ないと思います。
むしろ、マナーの正誤にとらわれすぎて肝心な部分が疎かになってしまえば、本末転倒です。
私は、神職さんがおられない場合は特別な方法で神前に伺いますが、神職さんがおられるときは、素直にご案内頂く方法で応じるようにしています(どちらにしても、神様にとっては目の前に私という人間が現れた、という意味では同じことだと思いますし)。
なお、私と一緒に参拝される際、この特別な方法を聞きたがる方がたくさんおられますが、本当に知ろうとする熱心な方以外にはあまり細かく案内していません。
最低限のポイント
神社参拝で、私が一番気を付けていること。
それは、地面です。
そう、私たちが足を踏みしめ、歩いている大地のことです。
なぜ大地なのかについては、以前の記事にまとめていますので、興味があれば読んでみてください。
本殿や拝殿といった神社の建造物は、もちろん有難く素晴らしいものだと思います。
奉職される神職、氏子や参拝者の皆さん、建設や維持を手掛ける宮大工さんたちの技術と気持ち、日本の文化などがこもった大切なものです。
ただ、それはあくまで神様を思う人々が手掛けた、いわば人工物です。
一方、神社が存在する土地そのものは、そのような人工物が建設されるはるか昔から存在するもので、個人的に神様は本殿ではなく、その土地に鎮座されていると考えています。
そのイメージは、「地涌(じゆ)」。「地面から涌き出る」という意味の仏教的な言葉であり、例えると「温泉」のような感覚です。
山形県にある湯殿山神社は、創建から1,000年以上の歴史を有する古社で、羽黒山、月山とともに「出羽三山」を形成し、修験道の聖地のひとつとなっています。(以前のブログ記事をご参照)
標高1,500mの湯殿山の中腹に神域があるのですが、そこへは靴や靴下を脱ぎ、裸足で入らねばなりません。
さらに、あまり詳細について口外してはいけないのですが、神域の性質から「ご神体の上に足を踏みしめ、歩くこと」ができます。
この神社を参拝したとき、私は「地涌(じゆ)」の意味を実感しました。
これ以降、流石に裸足になるようなことはないものの、神社に参拝するときはいつでも、私は拝殿の前で頭を垂れ、地面を見つめて神様にご挨拶しています。
また、同じような意味で、私はその土地に根差している神社の自然物、いわゆるご神木や磐座(神様が宿るといわれる巨石)にもご挨拶しています。(恐れ多くて、直接触れることまではしていませんが。。。)
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