スキップしてメイン コンテンツに移動

読書感想文『王とサーカス』

米澤穂信氏の『王とサーカス』。

数年前に読んだこの本の結末は、今でも思い出すくらい自分にとって教訓ともいえる内容でした。

 

あらすじ
新聞社を退職し、フリーランスとして海外旅行雑誌の取材のためにネパールに来た日本人の記者。仕事兼バカンスのつもりで優雅な時間を過ごそうと思ったら、、、ネパール王族を巡る殺人事件に遭遇してしまい、記者魂に火が付いた主人公はさっそく取材を開始する。

調べを進めて行くうちに判明した、とある多国籍企業とネパールの関係性・・・。

そして、「異邦人のお前に、真実がわかるのか?」と挑戦するかの如く、主人公の前に新たな遺体が転がる。危険を顧みず主人公が見つめた事件の真相とは。。。

 

感想
クライマックスで分かる真犯人の正体とその動機が、ネパールが発展途上の国であるが故の悲しみに根付いていて、胸が締め付けられる思いがしました。


世界的な巨大企業は途上国の人々の人権をないがしろにして、安い賃金で過酷な労働を強いている。だから、そんな企業の商品は買わず、もっと現地の人に寄り添った商品とサービスを選ぼう。

前から言われていた世界企業の問題点、トランプ氏が米国大統領になったころから陰謀論とともにより広く強く唱えられるようになりました。

たしかに、現地の人々に寄り添い、彼らの権利を保障することは大事です。

私も国際関係論を学んだものとして、ずっと大切にしてきた思いですし、今もそれは変わりません。

でも、『王とサーカス』の結末に触れた時、それは私たち先進国のエゴ、豊かな国で育ったが故のゆがんだ正義感ではないのか、という疑念も持ちました。

 

詳しく書くとネタバレになってしまうので言葉を選びますが、この物語の真犯人の動機は、まさにそうした「途上国で生きる人々のことを本当に理解していない、豊かな国の人々がもつ迷惑な正義感」に対する復讐、というものでした。

 

ウォレス・ワトルズ氏の『富を引き寄せる科学的法則』1910年発表)には、貧しい人を支援してはいけない、彼らが自分で儲ける仕組みを与え、学ぶ機会を作ることが最善の方法、と書かれてあります。

同じように、途上国の人々に寄り添うなら、搾取する世界企業をたたいて正義を振りかざして「助ける」のではなく、彼らが自立して、そんな企業に頼らなくてもよい仕組みを一緒に考える。

そのような発展的な考え方がなければならないのだろうと思いました。


ミステリー小説としては、他の作家による作品のほうが骨太のような気もしますが、着眼点という意味で私にとっては印象深い作品でした。

コメント

このブログの人気の投稿

茶道における「おもてなし」の本質

茶道は日本の伝統文化の一つであり、客をもてなす心が大切だと言われています。しかし、私はお点前をする際、少し異なる観点を持っています。それは、「お点前さんは客をもてなす存在ではなく、茶器や茶釜、茶杓たちと同じ『茶を点てる道具の一部に過ぎない』」という考え方です。この視点を持つことで、自我を極力排し、茶を点てる行為そのものに専念するようにしています。 「おもてなし」と「表無し」の違い 一般的に「おもてなし」という言葉は、「客をもてなす」という意味合いで使われます。しかし、私の師匠から教わったのは、「おもてなし」を「表無し」として捉えることの大切さです。 表がなければ裏もない。これが「表無し」の本質です。確かに、誰かを特別にもてなすことは、その人に幸せを感じてもらえますが、同時に他の人をもてなさないという区別が生まれ、不満が募る原因にもなり得ます。茶道の精神において、これは避けるべきことです。 もちろん、相対するお客さんによっては、多少作法に差は生じます。古くは天皇や皇族方、将軍や大名といった特殊な立場の人々、現代では経営者などの立場のある方と私たちのような一般の方とでは、その方々が茶室で窮屈な思いをしないよう、点前の作法や使う茶碗を普段のものと区別して気遣うということはあります。ただ、目の前にある一碗の茶自体が、人を取捨選択、区別しないことは常に意識しています。 茶席で客をもてなさない、という意味では決してありません。お客さんへの気遣いやもてなしについては、アシスタントである半東さん(はんどう:接客役のようなもの。茶会では、お点前さんと半東さんの二人体制で茶席を差配します)にお任せして、茶を供する点前役としては、表も裏もつくらず、ただ目の前の茶を点てることだけを念頭に置いています。半東さんがいないときは、自分一人でお点前ももてなしもするわけですが、それでもお点前中は静寂を保ち、一切の邪念は振り払うようにしています。 無心で茶に語らせる 私たち人間は完璧ではありません。目の前の客に心を注ぐことはもちろんできますが、同時に周囲のすべてに気を配るのは容易ではありません。だからこそ、「表」を意識せず、「裏」を作らず、ただ無心で茶を点てる。点てた茶そのものが、香りや風味などで語り始めるのを待ちます。 茶道において、道具たちは私たちと同じく主役の一部です。茶釜が湯の音を奏で、茶杓が...

Shaolin Temple Europe: Exploring the Intersection of Tradition and Modernity

In the heart of Germany lies a haven of ancient wisdom and martial arts mastery: Shaolin Temple Europe . My recent trip to Germany, accompanied by a friend who is a licensed Qigong trainer, led us to this remarkable place. For her, the opportunity to delve into the teachings of Shi Feng Yi , the esteemed headmaster of Shaolin Europe, was a dream come true. Visiting the temple was the pinnacle of our itinerary, and after much anticipation, we finally set foot within its hallowed grounds. Although Master Shi was away on a journey to spread his profound knowledge of Qigong and Gongfu across the globe, our disappointment was quickly dispelled by the warm welcome we received from a monk named Miao. Miao, hailing from France, exuded a serene aura that spoke volumes of his dedication to monkhood. His very name, bestowed upon him in the tradition of Buddhism, hinted at the depth of his spiritual journey spanning several years. Despite Master Shi's absence, Miao graciously guided us through...

茶道人口の減少

昨年末に地元で、学生時代の後輩と飲みに出かけました。彼は、私が茶道家であることをしっているので、その酒の席で、数年前の茶席での経験を教えてもらいました。 彼は、大学時代の茶道部OBの友人に誘われ、茶道部の現役学生とOBが取り仕切る大寄せの茶会に参加したそうです。茶道初心者の彼が、何とか見様見真似で体験したものの、敷居の高さや作法の難しさ、さらには周囲の雰囲気に押されて、かなり苦労したとのことでした。 例えば、茶席では扇子を携帯するのが一般的です。扇子は、挨拶や金銭の受け渡しの際に敷物として使うなど、礼儀の一環として必要なアイテムです。しかし、持っていなくても別にどうってことはないと私は思うのですが、彼は律儀にも下調べして扇子を携帯したようです。ただ、茶道用の小ぶりなものではなく、普通の仰ぎ扇子を持参したそうで、周囲の人からじろじろ見られ、恥ずかしい思いをしたと言います。 さらに、正座も大きな負担だったそうです。慣れていない人にとって、長時間の正座は非常に辛いものです。気遣いのできる亭主であれば、「脚を崩しても大丈夫です」と声をかけてくれるものですが、今回はそういった配慮がなかったとのこと。それにもかかわらず、茶席は由緒ある寺院で行われ、濃茶席、茶懐石、薄茶席と順々に案内され、一つ一つ丁寧に説明があったそうです。脚の痛みを我慢しながらなのでせっかくの説明も上の空で聞く羽目になり、脚を崩したいことも言い出せず、ひたすら苦しい時間だったと話していました。 この話を聞いて、私は茶道家として非常に心苦しく感じました。確かに正座や扇子といった作法は、茶道を学ぶ者にとって基本の礼儀です。しかし、茶道に馴染みのない人への心遣いや配慮が欠けていたことが、後輩のような初心者にとって茶道が遠い存在に感じられる原因になったのだと思います。 こうした排他的な側面が、茶道人口の高齢化や減少に拍車をかけているのではないかと考えます。茶道は本来、形式や礼儀だけではなく、「和敬清寂」の精神を通じて、人々に安らぎや幸せを提供するものです。しかし、その根幹を忘れ、形式ばかりが先行してしまうと、初心者や若い世代にとっては高い壁となってしまいます。 年末にこのような話を聞けたことは、茶道家として改めて自分のあり方を考える機会となりました。茶席が初心者や一般の方にも楽しめるものになるように、作法や形式に固執す...