京都の花街といえば、あでやかな芸者さんや舞妓さんの行き交う東山の祇園や上京の上七軒などが思い浮かびますが、かつては「島原」という大いに栄えた場所がありました。正式には「西新屋敷」とよばれたこの花街は、西本願寺から徒歩圏内にあり、男女の情を交わす遊郭としてだけでなく、俳諧などの文化も発達した一大教養地区でもありました。
そのためか、他の花街と違って非常に格式が高く、高位の武家や富裕層などの相手を務めるために、島原で活躍する太夫や花魁のような女性たちには容姿端麗なだけでなく、教養の高さも問われていました。
島原の栄枯盛衰
島原の起源は、1589年に豊臣秀吉が営業許可を与えた「二条新町」であり、江戸時代に入ると「六条三筋町」に移転しています。その後、突然の命令により現在の場所に移転せざるを得ず、このバタバタの顛末が長崎で起きた「島原の乱」のようだとの話から、俗称としての「島原」が定着しました。
江戸の一大花街「吉原」では、高い壁で花街を完全に覆い、中で働く女性は殆ど外に出ることは許されませんでした。無断で外に出ようものなら、厳しい仕置きが待っていたといわれています。これに比べて、島原は比較的緩く、通行手形など一定の規定はあったものの、花魁や太夫たちは自由に花街の外へ出られたようです。
また、いわゆる性的なサービスは島原のごく一部でしかなかったようです。実際、華やかな宴に美味な食事が楽しめ、また俳諧などの教養といった文化の中心地としての側面も強かったためか、一般の女性が中に入ることにもあまり抵抗はなく、花魁の中には自分の母親を花街で遊ばせていたものもいたようです。周囲の市民との共存がしっかりできていた、ということでしょうか。
幕末時代では、新選組に関わる種々の事件が起きるなど歴史的な舞台としても有名です。しかし、明治時代に入ると鉄道の発展に伴い、花街の中心が祇園などに移っていく中で、島原は衰退していきます。現在、当時の面影を残す「大門」や一部の施設、あるいは唯一当時のまま花街の業態を維持している「輪違屋」を除いて、島原地区は一般の住宅街となっています。
地区内には、当時の建物を保存し、島原の文化を伝える「角屋」という施設があり、見学料を払えばガイド付きで案内してくれます。詳細は、次回につづく。
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