大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある真言宗の寺院で、不動明王を含む「五大明王」を本尊としています。もともとは、平安時代初期の第52代 嵯峨天皇が建設した離宮でしたが、その後の紆余曲折を経て寺院となった経緯から、正式には「旧嵯峨御所 大本山 大覚寺」と称しています。 旧御所であり、また明治時代まで度々皇族が住職(門跡)を務めていたこともあって、その雰囲気は京都御所に似ており、往年の宮廷文化を至る所で感じ取ることが出来ます。また、いけばな発祥の地としても知られ、現在も「いけばな嵯峨御流」の家元として活動している寺院でもあります。 しかし、嵯峨天皇の時代から、大覚寺の誕生、そして南北朝時代までの流れをたどると、そうした雅な空気とは裏腹に、皇位を巡る政争の歴史が浮かび上がってきます。激しい歴史と宮廷文化ー大覚寺は、そうしたコントラストの上に存在する史跡でもあるのです。 大覚寺の初祖、恒貞親王 恒貞親王は、嵯峨天皇のあとを継いだ第53代 淳和天皇の次男です。長男が若年で死去していたので、皇太子候補として目されていましたが、息子が政争の道具となる事を危惧した淳和天皇は、代わりに嵯峨上皇(上皇=引退した天皇)の息子を皇太子としました。ところが、この皇太子が天皇に即位すると、強引に恒貞親王が次の皇太子として担ぎ出されてしまいます。 嵯峨上皇の死去後、父・淳和天皇が恐れていた通り、恒貞親王は政変に巻き込まれ追放されます。追放後、親王は出家して「法親王」となり、名を「恒寂」に改めました。 一方、残された嵯峨離宮については、同じく出家した母・正子内親王が寺院に改装し、恒寂法親王を初代住職に立てました。こうして、今日まで続く大覚寺が誕生しました。 大覚寺の再興 その後、大覚寺は衰退の一途を辿り、歴史の中に埋もれた存在となっていきます。そして、初代・恒寂法親王から経ること約500年、1308年(鎌倉時代)に、出家して「法皇」となった第91代 後宇多天皇が伽藍を整備し、自らの政治を取り仕切る「嵯峨御所」として再興したことで、大覚寺は再び歴史の表舞台にたつこととなります。 南北朝の対立 500年経っても、朝廷の中は相変わらずでした。当時は、第89代 後深草天皇(兄)と第90代 亀山天皇(弟)による兄弟の対立を発端として、後深草グループ(持明院統)と亀...
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