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Mishima Taisha Shrine(三嶋大社), Shizuoka

Mishima Taisha or Mishima Grand Shrine is located in Mishima city, Shizuoka. It worships "Mishima Daimyo-Jin (三嶋大明神)" which is comprised of two different deities; Oo-Yamatsumi(大山積: the great mountain deity)and Kotoshiro-nushi(事代主: the divine master of things). It is unclear exactly when the shrine was established, but at least it is thought to be more than 1,200 years old since the shrine's name is enlisted in the official list of shrines published by the imperial court about  1,200 years ago. Mishima=Izu islands The name "Mishima" means Izu islands(伊豆諸島)spreading out from Izu peninsula (in the east of Shizuoka Pref.) to the Philippine ocean. Most of the islands are protuberant submarine volcanoes and some of them are still active. In the ancient time, Mishima Taisha was considered a place of faith against the volcanic activities; eruption may harm peoples' lives, so they came to worship something divine to secure their safety and stop its eruption. ...

櫻井神社・櫻井大神宮

櫻井神社/大神宮は福岡県糸島市にあり、同じ境内に櫻井神社、櫻井大神宮という二つの神社が併設されています。両神社とも、福岡藩第2代 黒田忠之公の発願によって江戸時代に創建されており、日本の神社の中では比較的新しい部類に入ります。 創建の由来は、1610年(慶長15年)の6月1日未明に発生した大雷雨に遡ります。櫻井神社の伝記によると、嵐の最中、雷の一閃により岩戸洞窟の扉が開いて神霊が現れ、その後地域住民に次々と霊験あらたかな事象が発現しました。噂を聞きつけた藩主・忠之公は、二度に亘り使いを出して確認したところ、二度ともご神意に触れたため信仰心を深め、この岩戸洞窟の地に壮大な社を建てることを決意した、とあります。 忠之公はまず、岩戸洞窟より西南にある高台に神明造の神殿を2つ作り、各々に伊勢の内宮(アマテラス)・外宮(トヨウケヒメ)の分霊を祀る櫻井大神宮を1625年(寛永2年)に創始しました。その際、伊勢の神宮と同じく20年ごとの遷宮を実施することとしていましたが、1866年(慶応2年)の第13回を最後に、現在は途絶しています。 その7年後、1632年(寛永9年)に岩戸洞窟の神霊を祀る櫻井神社が建設されました。経年による傷みはあるものの、当時の社殿がいまも現役として使用されています。 「けがれ」を祀る神社 櫻井神社のご祭神は、神直日神(かむなおびのかみ:カムナオビ)、大直日神(おおなおびのかみ:オオナオビ)、八十禍津日神(やそまがつひのかみ:マガツヒ)の3柱です。神話では、亡くなった妻に会うために黄泉の国を訪れたイザナギが、黄泉から帰還後に川原で体を洗い清めていたとき、イザナギの体から離れた「黄泉の穢れ(けがれ)」を神格化したのがマガツヒ、その穢れを清める役目として発現したのがカムナオビ/オオナオビの2柱であったとされています。なお、八十禍津日の「八十」は数字ではなく、「数が多い」という意味です。 穢れというのは、物理的な汚れよりも「気枯れ(けがれ)」、つまり気分が悪くなったり、落ち込んでしまう状態を指します。神道では、我々の生活で起き得る様々な悪事や苦悩は、こうした気枯れによって引き起こされると信じられています。これを解消するために、人によっては神社でお払いを受けたり、祝詞を唱えたりします。 櫻井神社では、この「穢れ」を神様として祀っているので...

富士信仰

日本の山岳信仰は、信仰の対象である山の種類に応じて、ざっくり以下の2種類に分けられます。 ①浅間(せんげん)型 富士山、あるいは北越地方の白山や立山など、高く険しい山岳を神体山とする信仰。 ②神奈備(かんなび)型 大神神社(奈良県桜井市)の三輪山のように、平野部の小山や丘を対象とする信仰。 以上は山の種類で区別したものですが、これに山の役割や祭祀方法での分類を加えると、非常に多彩な信仰形態に枝分かれしていきます。山、そして人の数だけ、信仰があるのでしょう。 今回は、浅間型の山岳信仰の中でもっとも有名である、富士山を神格化した「富士信仰」、その中でもよく耳にする「浅間神社」での信仰(浅間信仰)について触れたいと思います。 浅間神社 浅間(せんげん)とは、富士山の古名です。もともとは、過去の山荘立てこもり事件で有名な長野県の浅間山(あさまやま)と同様、「火山」を示す名詞であり、やがて東海以東では富士山のことを特定するようになったと考えられます。 浅間神社は、東海を中心に点在する約1,300社の同名神社を指し、静岡県富士宮市にある「富士山本宮 浅間大社」がその総本宮とされています。主祭神は、富士山の山頂に鎮まるコノハナサクヤヒメ(浅間大明神)であり、多くの場合、縁のある神様(夫・ニニギノミコト、父・オオヤマツミ等)が配祀されています。 また、浅間大社には本殿がありますが、神社によっては本殿を持たず、富士山自体を拝み奉る祭祀を行うところもあります。 なお、富士山の八号目以上は浅間大社の社有地であり、山頂には奥宮があります。また、火口周辺は「大内院」とよばれ、最も神聖な場所として一切の立ち入りが禁止されています。(そもそも、富士山は現役の活火山ですので、火口に近づくこと自体が危険です。) コノハナサクヤヒメ 漢字で「木花咲耶姫」(日本書紀)と表わし、見目麗しい桜(木の花)の化身とされています。父である山神・オオヤマツミが、数ある山岳の中から富士山を与えたという伝説から、富士山に鎮まる神として祭られるようになりました。 神話では、皇統に寿命があることの由来として、コノハナサクヤヒメが登場します。 その昔、天孫・ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメに求婚した際、父・オオヤマツミは姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせました。しかし、醜女であ...

読書感想文(三田誠広著「道鏡」「桓武天皇」「空海」)

三田誠広氏の歴史小説「道鏡」、「桓武天皇」、「空海」の 3 冊を続けて読みました。 『道鏡』 道鏡は、称徳女帝の寵愛を利用して権力を握ったとされる僧侶です。彼を主人公とした小説『道鏡』では、無位無冠である皇族の「私生児」として鬱屈とした人生を送っていた道鏡が、出家後に看護禅師として女帝・称徳天皇の傍にはべり、その寵愛を受けて立身出世を狙う。。。というストーリーです。 天皇の地位にありながら不遇な身の上であった称徳天皇が、その寂しさを道鏡にぶつけ、愛欲にはまり込み、最後には道鏡に皇位を譲ろうとまでする「幸薄女の暴走」は艶かしくかつテンポよく、そしてその企みが失敗に終わり、称徳天皇の死によって道鏡の権勢が終わるところは哀愁漂わせる表現で描かれ、最後は夢破れた道鏡が左遷されるところで、物語が終わります。 『桓武天皇』 桓武天皇の人生を、①皇位からは程遠い末端皇族「山部王」として、自由気ままにすごしていた少年期、②道鏡追放後、 数奇な運命を経て「桓武天皇」に即位する青年期、③ 力をつけた東大寺勢力、 実弟・早良親王との政治的対立と別れに苦悩する壮年期、の3段階に分けて描いています。 武力に頼らない「聖王」を目指しながらも、弟への思いや家臣の思惑に翻弄され る天皇。うまくいかない現実に対して苛立ったり 、初恋の幼馴染との失恋を引きずったりと、桓武天皇が人間臭く描かれています。 『空海』 死期を悟った晩年の空海が、弟子たちに自らの半生を語る形式で物語が進みます。空海の回想を通して、讃岐の片田舎で育った少年「佐伯真魚(まお)」が、様々な人と出来事を通して仏教と出会い、唐へ留学して修行勉学に努め、日本を代表する大僧正になっていく姿がテンポよく描かれています。 一方で、少年期に悲恋を経験し、その思いを引きずりながら仏教へと帰依していく姿や、ライバルの天台宗座主・最澄への思いなど、後世に語り継がれる偉大な空海像とは違った「人間・空海」を見ることが出来ます。 3 冊とも独立した書籍で、いわゆるシリーズ物ではありません。ただ、同じ作者が同じ時代を別の視点で描いているので、ある物語の主人公が別の物語で脇役として登場することは面白い。例えば、空海と桓武天皇の邂逅。非公式な「私度僧」である若き空海は、真言密教の本拠地...

三嶋大社(静岡県三島市)

三嶋大社は、静岡県三島市にある神社で、山の神であるオオヤマツミと「えびすさん」の愛称で親しまれるコトシロヌシを総称した「三嶋大明神」を主祭神としています。創建の時期は不明ですが、延喜式内社(平安時代の神社リスト「延喜式神名帳」に名前のある神社のこと)であることから、少なくとも1,200年の歴史を有しています。 三嶋=御島=伊豆諸島 「ミシマ」という名前は、「御島」、つまり伊豆諸島を指しているとされています。三宅島をはじめ、伊豆諸島では常に噴火の危険性を孕んでおり、古代の人々にとって三嶋大社は、これらの噴火を鎮めるための信仰の場とされていました。 延喜式神名帳は、当時日本国内にあった神社を国別(例:肥前国、肥後国、山城国...)で区分けしてリストアップしたものですが、そのうち「伊豆国」のリストには、三嶋大社(と比定される神社)を含む88社の神社の名が列挙されています。ちなみに、伊勢の神宮を有する伊勢国や出雲大社の出雲国の神社数が各々200近くであり、また朝廷に程近い京都・山城国などが100社くらいであったことを考えると、伊豆国はこれらに次ぐ数の神社を抱えていたことになります。如何に当時の人々がミシマの噴火を「神の業」として畏れ、鎮めようとしていたのかが神社の数によって表わされているかのようです。   三嶋大明神 三嶋=ミシマ=伊豆諸島という関連に基づくと、主祭神の「三嶋大明神」は「伊豆諸島の大明神」と言い換えることが出来ます。 上述の通り、「三嶋大明神」は異なる神2柱を総称したものですが、元来は伊豆諸島自体の神性を示す土着の神だったと考えられています。 その後、後世になって「噴火」を鎮める信仰に関連して「山の神・オオヤマツミ」と見られるようになり、さらに江戸時代には「コトシロヌシ」説が有力となる等、創建以来の歴史において、三嶋大明神の正体は二転三転しています。 結局は、有力であった2つの神が総称される現在の形におさまっていますが、謎の主祭神・三嶋大明神を巡っては現在も諸説が並立しており、明確に特定されているわけではないようです。 (なお、同じ「オオヤマツミ」を祀る愛媛県・大 三島 の 大山祇神社とのつながりを示す説もあります。)   三嶋大社と源頼朝 三嶋大社は、源氏とのつながりが深いことでも有名です。...

Daikaku-Ji temple (大覚寺), Kyoto

Daikaku-Ji temple is a Buddhism temple (Shin-gon sect.:真言宗)in Saga area, Kyoto, having five wisdom kings of Buddhism (Acala, Kundali, Trilokavijaya, Vajrayaksa, Yamantaka) for religious worship at its main alter. Formerly, it was built as an imperial villa by the 52nd emperor Saga(嵯峨天皇 AD 786-842)about 1,200 years ago, and it was renovated as Daikaku-ji temple after the emperor died. In addition, some emperors, retired emperors and/or imperial princes became the temple's chief monk (Monzeki; 門跡) in its history. Therefore, unlike other Buddhism temples, the architectures were designed like the imperial court. To the contrary to the elegant court culture, this temple has witnessed many political battles over the imperial throne. Prince Tsunesada (恒貞親王 AD 825-884)-the first chief monk of Daikaku-ji temple Prince Tsunesada was the second son of the 53rd emperor Jun-na(淳和天皇)who succeeded to his elder brother's throne-the emperor Saga. Since Jun-na's first son had passe...

大覚寺(京都市右京区)

大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある真言宗の寺院で、不動明王を含む「五大明王」を本尊としています。もともとは、平安時代初期の第52代 嵯峨天皇が建設した離宮でしたが、その後の紆余曲折を経て寺院となった経緯から、正式には「旧嵯峨御所 大本山 大覚寺」と称しています。 旧御所であり、また明治時代まで度々皇族が住職(門跡)を務めていたこともあって、その雰囲気は京都御所に似ており、往年の宮廷文化を至る所で感じ取ることが出来ます。また、いけばな発祥の地としても知られ、現在も「いけばな嵯峨御流」の家元として活動している寺院でもあります。 しかし、嵯峨天皇の時代から、大覚寺の誕生、そして南北朝時代までの流れをたどると、そうした雅な空気とは裏腹に、皇位を巡る政争の歴史が浮かび上がってきます。激しい歴史と宮廷文化ー大覚寺は、そうしたコントラストの上に存在する史跡でもあるのです。 大覚寺の初祖、恒貞親王 恒貞親王は、嵯峨天皇のあとを継いだ第53代 淳和天皇の次男です。長男が若年で死去していたので、皇太子候補として目されていましたが、息子が政争の道具となる事を危惧した淳和天皇は、代わりに嵯峨上皇(上皇=引退した天皇)の息子を皇太子としました。ところが、この皇太子が天皇に即位すると、強引に恒貞親王が次の皇太子として担ぎ出されてしまいます。 嵯峨上皇の死去後、父・淳和天皇が恐れていた通り、恒貞親王は政変に巻き込まれ追放されます。追放後、親王は出家して「法親王」となり、名を「恒寂」に改めました。 一方、残された嵯峨離宮については、同じく出家した母・正子内親王が寺院に改装し、恒寂法親王を初代住職に立てました。こうして、今日まで続く大覚寺が誕生しました。 大覚寺の再興 その後、大覚寺は衰退の一途を辿り、歴史の中に埋もれた存在となっていきます。そして、初代・恒寂法親王から経ること約500年、1308年(鎌倉時代)に、出家して「法皇」となった第91代 後宇多天皇が伽藍を整備し、自らの政治を取り仕切る「嵯峨御所」として再興したことで、大覚寺は再び歴史の表舞台にたつこととなります。 南北朝の対立 500年経っても、朝廷の中は相変わらずでした。当時は、第89代 後深草天皇(兄)と第90代 亀山天皇(弟)による兄弟の対立を発端として、後深草グループ(持明院統)と亀...