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7月, 2022の投稿を表示しています

白に対する考察

2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」において、 安政の大獄を強いた 井伊大老と主人公の天璋院(篤姫)の対立関係が描かれる中で、将軍家への輿入れの際に篤姫の母代わりを務めた近衛家の老女・村岡局に関するエピソードが盛り込まれています。 幕府転覆をはかる朝廷の密勅を手助けしたとの疑いで奉行所に捕らえられ、気落ちしていた村岡に届けられた天璋院からのお見舞い。それは、天璋院の婚儀装束である大切な白い袿(うちき)。天璋院の真意を察して元気を取り戻した村岡は、 奉行の詮議にその袿を着て臨み、堂々とふるまうという演出が成されています。 白い袿を見た奉行が「観念して、罪を白状するための装束か」と問えば、村岡は「無実を証明できる、おめでたい日の装束」と応答。逆上した奉行が無理やり脱がそうとすると、村岡は「これは、先代将軍の正室・天璋院からもらったものであり、葵の御紋と同じもの」とさわやかに反論。白い袿を通して徳川将軍家がバックについていることを示し、詮議は終始村岡のペースで進む・・・という展開です。 村岡役を演じられた故・星由里子さんの凛とした佇まいと京言葉がとても印象に残っています。 ・・・ 私の「白」への印象は、このシーンに凝縮されています。 罪の「白」状を求める奉行と、村岡が示す潔「白」、村岡にとってめでたい日の正装、そして天璋院からのお守りとしての意味を持つ「白」い袿。村岡が反論に転じた際に、庭から差し込んでくる「白」い日差しの演出。 同じ「白」でも、このシーンにこれだけ様々な意味が込められています。 白と聞くと、なんだかさわやかできれいな印象です。 しかし、もしかすると日本ではもともと忌むべき色として見られていた印象を もっています。   一般的に、白が清いのはわかりやすいです。 和洋問わずに、花嫁衣裳として白いものが選ばれやすいですし、スピリチュアル的には浄化や 神様の色ともいわれている。ファッションでも、いろいろなコーディネートに合わせやすい代表的な 色でもある。 その反面、亡くなった方の死装束も白色ですし、時代劇などでもよく見られますが、昔の喪服は 白装束でした。また、汚れが目立ちやすいので、ファッションにも気を使いますしね。 さらに、精製した白砂糖や塩、白米は精製前よりも栄養素が少なくなっていることでも有名です。 加えて、「白」を使った日本語の...

判官びいきと村八分:安倍元首相殺害事件について思うこと②

  前回の記事 をご参照 「かわいそうな死に方をした人」への対応について、前回の記事で述べた。一方、「かわいそうな状況にあるひと」について同情を寄せるのも、日本人のお家芸の一つである。 安倍元首相殺害の容疑者に対し、その薄幸かつ不遇な半生を報道等で知り、同情する人たちが多いと聞くが、それは日本人の意識に根付く「判官びいき」によるものだろう。判官びいきは、「弱い者について、あえて冷静な判断をせず、同情を寄せること」であり、武勲がありながら兄に捨てられ、頼りにしていた奥州藤原氏の裏切りにあう源義経や赤穂浪士の吉良邸討ち入りを描く忠臣蔵が今も人気であることを思えば、国民の間で容疑者に対する同情の念が一定以上湧き上がってくることは無理もないと思う。 一方、突然、残酷な形で命を絶たれた安倍元総理について心を寄せ、昭恵夫人の様子を報じたり、安倍夫妻の在りし日を偲ぶ報道や国民の声も多い。 彼の政治実績を見ると、アベノミクスの恩恵にあずかったものはいるだろうし、長期政権により外交面で安心感を与え、日本の対外的な地位を上昇させたことは評価できる。一方、非正規雇用拡大による格差の助長、安保関連法案制定に関わる強硬的な姿勢や一連の「政治とカネ問題」、特に森友問題においては公文書偽造という民主主義における最大の汚点を招いたことを思えば、いまなお問題点は多い。 彼の政治に対する評価が功と罪にはっきり分かれていることを思うと、彼を偲ぶことも彼を慕う者による「判官びいき」といえよう。 私自身、国民の間で意見が分かれていても、根底には同じ「判官びいき」があるのだから、やはり日本人は日本人だな、と思っている。 この事件を機に、少しだけ刑法の条文に触れてみた。印象としては、「罪人に優しい」というものだ。 根底には「裁くものは罪であって、人ではない」という観念があり、最後まで罪人に更生と挽回の可能性を見出そうとしているように見える。その罪が社会の許容を超え、悪質だというときに極刑がやむを得ない手段として残されているが、判決からすぐに刑が処されるわけではない。というのは、人が罪を裁く以上、その判断が誤っているかもしれないことも考慮しており、たとえ極刑に処されたとしても、合理的な理由があれば、なお再審請求が可能となっているからである。また、その次に重い無期懲役についても、相当の年数は必要...

安倍元首相の国葬について思うこと

古代から、「かわいそうな死に方をした貴人」に対しては、手厚く葬ってきた経緯がある。 概ね、「怨霊となって、世に出てくることが怖い」という当時の人々の死生観・宗教観が基となっている。例えば、失意のうちに死を遂げた菅原道真の怨霊が怖すぎて、時の朝廷は北野天満宮を作り、今でも丁重に祭っている。そのほかにも、非業の死を遂げた早良親王、井上内親王は京都の崇道神社や御霊神社に、日本一の大怨霊と言われた崇徳院に至っては、明治天皇が即位前に自ら配流先の讃岐から京都へと御霊を移し、白峯神宮を創設している。 政治的なイデオロギーはさておき、あのような亡くなり方をされた安倍元首相を国葬に、というのは、怨霊の話はともかくも、古代からのお家芸と思っている。皇位の「万世一系」をうたい、戦後の一時的な時期を除くと、ほとんど外国の支配による政体の変化がなかった日本において、古代も今も発想は変わらないのかな、と。 さて、私個人は、言葉は悪いが内閣総理大臣とは「国民の雇われ社長」という認識しかない。さらに言えば、政府は会社、国民は株主、国会を株主総会、内閣を取締役会だと思っている。 会社組織として、取締役会の決定は会社としての決定となるので、その社員は従わねばならない。ただし、株主はこれに従う必要はなく、会社の決定に不服ならば株主総会で疑義を呈することはできる。株主訴訟により、その決定を差し止めることも出来よう。 この例が正しければ、閣議決定による国葬について政府は従わねばならない。ただし、国民はどうであろうか。 賛成も反対もありきではなく、憲政上の最高決定機関である国会で丁寧に議論すべきではないのか、と思う。私は、国会で決められれば、個人として安倍元首相に対して持つ感情はともかく、粛々とやればいいと思っている。 逆に言えば、そのプロセスを経ず、たかだか取締役会ごときが株主の意見を聞かぬようであれば、国葬には反対する。

Japanese Emperors, where to be buried after death

Retrieved on 2022/7/15 from https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kondayama-ohjin_stereo.jpg#/media/ファイル:Kondayama-ohjin_stereo.jpg Go-ryo (御陵) or Mi-sa-sagi (陵) is a grave where bodies of the Emperor and the Empress of Japan are buried after they die. The current Emperor Naruhito (今上天皇徳仁) marks the 126th in the chrysanthemum throne and his father, the Emperor emeritus Akihito ( 上皇明仁: the former 125th Emperor) who abdicated the throne in 2019 is still alive, that is, there are 124 graves so far for the Sovereigns ranging from the legendary first Emperor Jimmu (神武天皇) to the 124th Emperor Showa (昭和天皇) who’s known as Hirohito (裕仁) and there will be one more added when the Emperor emeritus dies in future.  How Go-ryo is      The graves exist throughout Japan but concentrate mainly in Nara, Osaka, Kyoto and near-Tokyo area.      Chronically, the Emperors in the ancient time are buried in larger tumulus with keyhole shape ( circular‐shaped tomb with...

The imperial villa in Katsura, Kyoto (Katsura Rikyu/桂離宮)

  Katsura Rikyu is one of the villas that Japanese government possesses as properties for the imperial family. That said, it is quite rare that the family including the Emperor visits this villa currently since it is based mainly on the cultural aspects to maintain and preserve the site to this day. The imperial status This villa was built as a villa for an imperial family member called Hachijo-no-miya in early Edo period. The family started with prince Tomohito as the first patriarch, who was a grandson of the 106th Emperor Ougi-machi. He wasn’t given chances to play major roles in the imperial court and politics despite his royal high status but he was said to be a genius in academics and gardening. Instead of his hope to take part in the politics, he decided to build his own villa as a synthesis of his talents having well-balanced huge garden. However, he died before he could complete the construction. His son, prince Tomotada took over the family but he was just a child tha...

Entsu-in Temple(円通院)、Matsushima Miyagi

Entsu-in Temple (円通院) is a Buddhist temple for Rinzai-Sect., in Matushima, Miyagi. It was built by the 100th head-monk of Zuigan-ji temple in its adjacent in 1647 for a memorial service for Date Mitsumune (伊達光宗) who was Masamune’s grandson and died at the age of 19 in 1645. (This article ogirinates in a previous article in Japanese.) Date Mitsumune      Mitsumune was born in 1627 as the second child of Date Tadamune ( 伊達忠宗: the second Daimyo/lord of Sendal district after his father Masamune). Tadamune’s firstborn son deceased early so Mitsumune was destined to be the heir presumptive after Tadamune at the age of three. Despite his predetermined destiny, he died of an illness when he was 19 years old.       His father Tadamune mourned the death and built a mausoleum in 1646 and Entsu-in temple embracing the mausoleum and a function served only to Mitsumune  in 1647; Entsu-in temple itself can be referred as a grand graveyard only for Mitsumune....

円通院(宮城県松島)

円通院は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗の寺院です。 19 歳でこの世を去った伊達政宗の嫡孫・伊達光宗の菩提を弔うために、政宗の菩提を弔う 瑞巌寺 の第 100 代当主が、境内に隣接する場所に設立しました( 1647 年)。 瑞巌寺参詣者の多くが立ち寄るほか、秋には紅葉の名所として観光客が訪れる名刹でもあります。   伊達光宗 光宗は、政宗の後を継いだ第 2 代仙台藩主・伊達忠宗と正室・振姫の次男として 1627 年に生まれ、長男の夭折を受け、 3 歳で伊達家の世継ぎとなりました。 初代・政宗の孫、かつ 2 代藩主と正室の子であり、さらにその母の従兄弟にあたるのが徳川幕府 3 代将軍・徳川家光であったことから、血筋の上で光宗は伊達家世子として申し分なく、仙台藩の次代藩主としての地位が確実視されていました。しかし、 1645 年、光宗 19 歳の時、病を得て江戸で帰らぬ人になりました。 仙台藩では光宗の死を悼み、 1646 年にその御霊を祭る霊廟・三慧殿が建立され、翌 1647 年にその霊廟を頂く光宗の菩提寺として円通院が開山されました。   三慧殿 光宗の霊廟として建立された三慧殿には、黄金の輝きを放つ金箔の上に、繊細かつ彩色豊かな装飾の数々が施されています。父・忠宗が若年の嫡子を失った悲しみを拭い去り、愛する子供の冥福を強く祈るかのように、きわめて豪奢に作ったともいわれています。 ただ、これだけ豪奢に作られた霊廟も、建立当初から約 350 年の長きに亘り秘匿され、人の目に触れないようにされてきました。 円通院のガイドによると、その理由は霊廟内に設置された御霊舎の装飾としてあしらわれているバラ、水仙といった西洋由来の花や西洋文化から影響を受けたダイヤやハート、スペードといった文様にあるとのこと。 これらは、政宗存命中に命を受け、使節団として欧州へ渡航した伊達家の家老・支倉常長(はせくら つねなが)が帰国後に持ち帰ったものであり、特にバラはローマ、水仙はイタリアのフィレンツェと、常長が訪れた場所を示唆しているといわれています。 常長は、渡航先でキリシタンとして洗礼を受けましたが、帰国したときには江戸幕府の意向により「キリシタン禁止令」が敷かれていました。彼は、帰国して 2 年後に 失意の中 亡くなっ...

Zuigan-ji temple(瑞巌寺), Miyagi, Japan

Zuigan-Ji temple(瑞巌寺) is a Rinzai-sect.(臨済宗) Buddhist temple in Matsushima, Miyagi, Japan. (This article originates in a previous one in Japanese. You can refer to this link .)      Originally, this temple started as a temple of Tendai-sect.(天台宗), a Buddhist group with a different dogma (let ’ s say, similar to differences between Catholic and Protestant in Christianity), but it was renewed to the Rinzai-sect. by Kamakura Shogunate in Kamakura era and then renovated by Date Masamune (伊達政宗) , the first samurai lord or “ Daimyo ”(大名) of Sendai district in Edo period. The temple ’ s main hall which has Masamune ’ s mortuary tablet within was built by his own order and has been preserved for generations: the hall with its grand kitchen inside has been a national treasure of Japan since 1953, given its background history and proper preservation. The imperial court and Samurai      Zuigan-ji temple ’ s history goes in line with political shift between the imp...