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10月, 2022の投稿を表示しています

比治山神社(広島市)

比治山神社は、広島市南区の比治山公園内に存在する神社です。 もともとは、比治山の南にある「黄幡谷」に鎮座していた神社でしたが、 1646 年に真言宗勝楽寺の境内へ、その後寛文年間( 1661-1673 年)に現在地に移りました。 しばらくは神仏混合の産土神として近隣住民に信仰されていましたが、明治の神仏分離の際に、勝楽寺を廃して「比治山神社」としての道を歩みました。   祭神の不思議 当社では、オオクニヌシ、スクナヒコ、イチキシマヒメ、スサノオ、そして車折大明神の 5 柱の神々が、同じ本殿に祭られているのですが、この神々のチョイスに面白みを感じる神社マニアのわたくし。 広島ということで、厳島神社の神様であるイチキシマヒメを祭るのは理解できます。 また、島根と陸続きであることなどから、出雲地方にゆかりのあるオオクニヌシ、スクナヒコ、スサノオが合祀されているのも感慨深い。 さらに、神話上、皇祖アマテラスの娘であるイチキシマヒメの誕生には、アマテラスの末弟・スサノオが深くかかわっていることから、天津神(アマテラス系)と国津神(オオクニヌシ / スサノオ系)の融合に深く感じ入る神社でもあります。 謎なのは、車折(くるまざき)大明神。 京都市右京区の車折神社に鎮座する神様で、もとは平安時代の貴族である清原頼業(きよはらのよりなり)を死後、神格化したものとされています。 儒学を修めた学識によって朝廷を支えた賢人として有名な頼業ですが、清原氏の領地のあった京都に祭られるのはよいとして、なぜ広島におられるのだろうか。。。 少し調べてみると、頼業の役職にヒントが隠されていました。 彼が朝廷から任命されたのは、「直講兼周防介」。 直講とは、平安時代における大学教授、兼務している周防介は周防国の知事?のようなものと解釈できます。 周防国は、現在でいう山口県防府市あたりの地域を指し、戦国時代は現在の広島市も含めて毛利家による支配を受けていました。 その流れから、比治山神社には頼業が合祀されているのかもしれません。   1945 年 8 月 6 日 広島市のほとんどは、この日に投下された原子爆弾によって破壊されました。 比治山神社も、例外ではありません。 これが、これまで広島の神社を訪ねることに個人的に躊躇して...

豊国神社(宮島)

豊国神社は、死後に「豊国大明神」と神格化した豊臣秀吉の御霊を祭る神社のことで、京都や大阪など、秀吉ゆかりの場所に建立されています。 広島県の宮島にも、「千畳敷」として有名な豊国神社が存在します。祭神は、もちろん秀吉=豊国大明神です。 元・仏閣 豊国神社は、もともとは神社ではありません。その起源は、1587年に秀吉が戦没者慰霊のための納経所として発願したことに遡ります。秀吉は、安芸を治めていた毛利輝元に納経所の建設を命じ、毛利家配下の僧侶・安国寺恵瓊が建設の現場監督を務めたとされています。 ただ、建設途中に秀吉が亡くなり、工事が中断されたため、壁や天井の装飾が未完成のまま、今日まで至っています。 神社でも、秀吉の御霊を祭る場所でもないこの仏閣は、のちに明治の廃仏毀釈を受けて内部の仏像類をすべて別の場所に移し、1872年に豊国大明神を祭る神社(厳島神社の末社)として再出発しています。 だだっ広い千畳敷 内部は、「千畳敷」という俗称の由来となった畳857枚分に及ぶ面積を誇る、黒色の板張が床面いっぱいに広がっており、その黒さ?と広さに圧倒されます。 なぜでしょう、こういう広い空間にいると、必ずハイテンションで駆け回る子供が複数出現するのは・・・(笑)。小さな子供たちがはしゃいで走り回り、それを制するために声を挙げたり、子供の後ろを駆け回るご両親の姿があちらこちらで・・・。 日本の家は狭いから、こんなに広いと駆け回りたくなる気持ちはよくわかります。 さらによくわかるのは、大の字になって昼寝?する大人たちの気持ち。 特に身長が高く、大抵のベッドや布団では足先がはみ出てしまう体型のわたくし、そんな大人たちに交じって、大の字で寝転がっていましたとも。 この板張を含めた本殿自体が、国指定の重要文化財となっているようです。 重要文化財の中で昼寝、、、最高です(笑)。 宮島の隠れパワースポット(謎)。

厳島神社

厳島神社は、広島県廿日市市の厳島(通称:宮島)に位置する神社で、 1996 年に UNESCO 世界遺産に登録されています。日本三大景観の一つ「安芸の宮島」として、特に海上に浮かぶ朱色の大鳥居が有名です。(大鳥居は、現在修復工事のため全容を見ることはできません) 広島市から JR もしくは広島電鉄経由宮島口駅からフェリー、あるいは原爆ドーム近くの乗り場から高速船で島に向かうのが一般的なアクセスです。 社伝では 593 年に創始されたとあり、特に平安末期からは平氏が一門の氏神として、あるいは瀬戸内海の守り神として厚く崇敬していたことで有名です。 中でも、金や銀の糸をふんだんに使用した豪奢な巻物に、平清盛が金泥を用いて自書した願文や般若心経などの写経を収めたことは有名で、これらはすべて神社所有の国宝として認定されています。神社の宝物館では、この納経の一部複製を見ることができ ます。 イツクシマ 厳島神社の祭神は、福岡県宗像市にある 宗像大社 と同じ、「宗像 3 女神」(タギツヒメ、タゴリヒメ、イチキシマヒメ)です。いわゆる「ご利益」にあたる神徳については、宗像大社と同様、交通安全の守護神として、また神仏習合時代に 3 女神の末妹・イチキシマイメが弁才天と同一視されたことから、そのご利益(財運、弁論・芸術運向上)が期待されています。さらに、女神様であることから、女性を守護する神様としても有名です。   島の名前「イツクシマ」という音は、イチキシマヒメの名前が転じたとも言われていますが、厳島自体を「神が斎(いつ)かれる」神聖な場所、あるいは仏教的な浄土(この世の終わりに行き着く島)としてあがめていたことに由来しているとも考えられています。また、作家の高田崇史氏は、厳島神社は怨霊を「居付かせる」、つまり封じる意味で建設された、という説を唱えています。   社殿 一門の繁栄を祈り、氏神として積極的に寄進をしてきた平清盛とその一族の趣向が反映されているのか、社殿は平安貴族の邸宅である「寝殿造」形式をとっており、現代でも国宝に指定されています。 満潮・干潮のタイミングにより、夜間~朝方にかけては社殿の下部は海水で満たされ、あたかも神社が海に浮いているような風景が楽しめます。一方、太陽が昇るにつれて次第に潮が引き、今度は地面の上に...

ありがとう25,000回(小林正観さんの教え)

ありがとう 25,000 回。 小林正観さんが著書などで紹介されていて有名ですが、「ありがとう」という言葉を 25,000 回唱えると、涙があふれてきて、人生が「すべてがうまくいく奇跡モード」に変化していくらしいのです。 病気が治るとか、思い通りのことが起きたとか、体験談は数知れません。   「ありがとう」を 25,000 回、一気に言おうとすると、早口の方でも 4 時間以上は必要です。 累積で 25,000 回に到達すればよいので、例えば一回に 10 分ごと、数日に分ける形でもよいとのこと。   ただし、不平不満、怒りや愚痴などのマイナスの言葉を一度でも口にしてしまうと、カウンターはゼロ。 1 回目からやり直すというルールです。 ( 24,999 回目に、マイナスな言葉を口にしたら、なんと 24,999 回がゼロに戻り、 1 回目からやり直し。。。) これには救済措置があって、マイナスな言葉を言った後、 10 秒以内に「今のは無しです。」と言葉にすれば、ゼロには戻らないようです。     これぞと思ったら猪突猛進なB型男( ´艸`)、さっそくやってみました。 もともと、神様の祝詞を20万回くらい3か月かけて唱えるという、謎の修行を経験した身からすれば、25,000回というボリューム自体にそれほど抵抗はありませんでした。 ただ、やはり出てくる「マイナスな言葉」。 仕事でのイライラなどが無意識に口に出て、救済を失敗した(10秒以内に打ち消せなかった)ことが数回あり、何度かやり直ししながらの挑戦でした。 それでも、何とか救済措置に支えられながら、 25,000 回を 2 日に分けてようやく達成。 (しかも、マイナスな言葉が出やすい仕事のない休日を活用!) 達成後の心境 25,000 回達成後、書籍にあるような「涙が出る」ようなことはなかったのですが、物事のとらえ方というか考え方が以前とは大きく異なっていることに気が付きました。 正確には 10,000 回を超えたあたりから、徐々にですが、以下のような変化を感じ取りました。 マイナスの言葉を言う頻度が極端に減った。言わない、もしくはポジティブな言葉へ変換して表現する習慣が身についてきた。 マイナスの言葉を言っても、必要以上に恐れた...

October 2, 2022

"Happy" comes from the word "happening". When you say a happening, people tend to think it bad. You shall intentionally add some good wording to make the happening look or sound a better one. e.g. a great happening.  "Happy" also comes from the word "happen". A one-way event which makes you feel better: no path forward to keep being happy in the future. Thus, "being happy" doesn't necessarily mean positve. "I'm gratified" is a much better word to show your continuity on being positve. It also embraces negativity: you'll see there is no difference between positivity and negativity. It's always the one: Ying and Yang. When you say "I'm gratified", you can take things as it is without judgment on good and bad. That neutral status in mind is what God would like you to retrieve.