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法滅尽経

仏教の始祖である仏陀、生きていたころはゴータマ・シッダールタと名乗っていた彼は、自らの死を迎える前に、弟子に自身の死後に訪れる「この世の終わり」がどのようなものなのかを教え伝えています。その内容は、「法滅尽経(ほうめつじんきょう)」という経典としてまとめられていますが、長きにわたって秘されていました。

とても長い経典ですが、ネットでは多くの方が和訳をのせてくださっているので、興味のある方は調べてみてください。和訳の種類によって多少解釈が異なるようですが、概ね以下のような内容が記されています。

  • 仏陀の死後、この世は仏の教えが通用せず、罪深い者たちであふれる「末法の時代」に突入する。
  • 末法の時代の特徴↓
  1. 悪魔が僧侶の身なりをして、贅の限りを尽くし、酒食におぼれ、淫乱を極め、慈悲の心もなく、互いを憎み妬みあう。
  2. 仏道を極めようとする修行者を排除し、まともに仏典を理解できない悪僧が、こじつけで無理やりな知識を以て、ただ富と名声を求めて、人民を惑わす。
  3. こうして仏法が滅しようとするとき、女は精進して徳をおさめ長生きする。男は怠け、信心することもなく、淫らな行為にふける結果、精も尽き果て早死にする。
  4. また、世の中においては、作物が育たず、疫病が流行し、死ぬ者が多くなり、生き残った者も苦しむ。官僚は道理に合わぬ税を取り立てるようになり、人々は反乱を起こす。そして大洪水が起き、多くの者は水に溺れ、魚に食われる身となるであろう。
  • 世界は闇にとざされ、仏法の光も届かない。しかし、数万年後には弥勒菩薩がこの世にあらわれ、仏法を以て世界に光をともすだろう。その時には、この世に毒気はなく五穀も豊穣に育ち、人々は健康で長寿の身となるだろう。
誇張した例示や表現も多く、いかにも説法らしい内容なので、オカルト的な「仏陀の預言書」という扱いで、巷では有名なのだとか。確かに、ハルマゲドンみたいな終末思想が好きな方には、人気がありそうですね。

とはいえ、COVID-19で右往左往する今日この頃においては、結構当てはまっているとの印象もあります。では、今が「末法の時代」なのでしょうか。

私は、スピリチュアルなことや超能力、霊能力の類を信じているタイプです。きっと、そちら方面の世界では、救世主的な弥勒菩薩がお出ましになり、世界を光で照らすのだと、結構本気で信じております。

ですが、ここではそういうアプローチではなく、より現実的な視線でこの経典を見つめたいと思います。もし、法滅尽経がCOVID-19を取り巻く現代のことを示すのなら、仏陀が示す「弥勒菩薩」とは、何を意味するのか。。。


弥勒菩薩は、新しい世の仏道を主導するリーダーであり、今は別世界で修業中とされる、仏界のニューホープです。(詳しくは、以前の記事をご参照)
つまり、法滅尽経において、末法の時代は「仏の世代交代」によって終了するわけです。

この文脈を用いて、弥勒菩薩を「新しいもの」と読み替えると、この法滅尽経の見方が変わってきます。私には、どうも弥勒菩薩は比喩であり、新しい考え方や変化に柔軟な姿勢をもちなさい、と促している内容に見えるのです。

旧来のやり方ににしがみつかず、この危機を好機ととらえて、新しい生き方を模索する。そうすれば、困難な状況が終わった時、さらなる飛躍を遂げることができる。これを「弥勒菩薩」と喩えて、仏陀が残したかったメッセージではないかと思うのです。

外出自粛は、自由を奪われてつらい。
しかし、この時間をどう過ごすかが、コロナ後の世界における自分の在り方につながるのだと思います。
それであれば、今は雌伏の時だと歯を食いしばり、新しい知識を蓄積していくことが大切、、というより、そういう時間をもらえているとの思想で、研鑽を積めばよいと考えます。それが、一番苦しいのですよね。だけど、今は恥をかいてでも生き抜き、知恵を磨くしかないわけです。

そんなこんなで、私も在宅勤務で通勤しなくてもよい時間を有効に使い、海外大学のオンラインセミナーを受講して、スキルアップを図っています。お金はかかりますが、コロナ後のことを見据え、今は将来への投資ととらえています。

皆さんの弥勒菩薩は、どんなものでしょうか。

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