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ウィルスと疫病、そして節分と鬼

COVID-19の影響により、今年の祇園祭の山鉾巡行が中止になったとの報道に接しました。祇園祭の山鉾といえば、京都の夏の風物詩。準備していた関係者の皆様にとってはつらいことと察します。 祇園祭はもともと、八坂神社が疫病封じのために始めた仏教的な儀式(御霊会)が由来とされています。当時の人々は、得体のしれない病を神の祟りだと思い、祈りをささげることで平穏無事な生活を維持しようとしたのだと思われます。(詳しくは、 こちら をご参照) 似たような疫病封じの神事は全国各地にありますが、初夏~盛夏にかけての時期に集中しています。夏は暑いから、疫病が発生しやすいのでしょう。 一方、2月3日の節分といえば、「鬼は外、福は内」と唱えながら、鬼に豆(大豆)を投げつけて魔を払う豆まきが風物詩です。このまいた豆を、後で食する慣習についても、ご存知の方が多いのではないかと思います。 さて、この鬼さん。一説には、インフルエンザを含めた風邪ウィルスのことを指している、とも言われています。確かに、毎年、節分前後からインフルエンザの流行が始まります。また、「風邪をひく」とあるように、邪気を体内に引き込んでしまうという考えからか、古来、人々は経験的に「夏の疫病」とは異なる存在として、これらを「鬼」として恐れていた、とも考えられます。 というのも、夏と冬で人々がとるアクションが異なるからです。夏の疫病は「神の祟り」なので、神様を鎮めるという受動的で消極的なアクションであるのに対し、冬の風邪は「鬼」なので、豆を投げつけて追い払うという、能動的で攻撃的な姿勢が鮮明であり、人々が夏と冬で態度を使い分けていたように見受けられます。 「鬼」というのは、もとは「朝廷に従わない人々」への蔑称でした。岡山の吉備津神社に今も存在すると信じられている鬼(湯良)も、かつて製鉄技術によって一大勢力を誇り、大和朝廷に最後まで抵抗した吉備族の頭領を指すとの説もあります。 私見ですが、「鬼」は、「魂」や「魂魄」という、我々自身の根幹を示す漢字にも表れていることから、本質的には我ら(魂/魂魄)と同じであるが、何らかの理由で区別せざるを得なかった存在ではないかと思います。 こう考えると、「風邪=自分たちの邪な部分」を何としても追い払いたい、という強い意志が、豆を投げつけて鬼を退散させ

「言挙げ」と「言い切らない」、そしてコロナ

COVID-19感染に関り、米国ニューヨーク州のクオモ知事の活躍ぶりが報道されていますが、彼による最大の貢献は、ウィルス感染防止の対策に、科学的見地だけでなく、社会学アプローチも必要であるということを、世に示したことにあると思います。 ニューヨークの感染者が増加の一途をたどる大きな原因は、移民を中心とした貧困層に十分なケアが行き届かないことにあります。彼らは、十分な医療サービスが受けられず、また外へ働きに出かけなければ生きていけない。さらには、住居も衛生的とはいえない環境に置かれているとみられています。彼らがもし暴徒化し、街を占拠するようなことになれば、言い方はかなり悪いですが「歩く感染源」になりかねない。 クオモ知事は、ニューヨークのこうした状況を世に知らしめ、彼らをケアするために十分な財源が必要であると、ひるまずにトランプ政権、そして世界に訴え続けているのです。 日本でも同じアプローチが必要ですが、強制力と経済的な補償が不十分な緊急事態宣言によって、うまく作用しているとは言い難い状況です。その原因の一例として、日本人の中で慣習として息づいている「言挙げをせず」、「言い切らない」文化があげられると思います。 言挙げをせずとは、要するに「反論しないこと」です。日本の神話には、ヤマトタケルが伊吹山で遭遇した一匹の大きなイノシシに対し、その正体が神だと知らずに傲慢な言葉を投げつけた結果、呪われて死に至るというエピソードがあります。 このヤマトタケルの行為を「言挙げ」と呼び、神様には逆らってはならないという意味で「言挙げをせず」という考えが生まれました。もっというと、「起きたなら、文句言わずに、受け入れる」という考えに通じており、東日本大震災の時にも世界的にびっくりされましたが、自然災害が起きても、平静にしつつ、その変化に自分を適応させていく日本人の心に根付いているのかもしれません。 言い切らない、というのは、言葉に霊力があるとみる「言霊」の考えに通じています。以前、 「祝いと呪い」という記事 で紹介しましたが、言葉は人を祝う力も呪う力も宿します。同時に、「中庸を行く」ことが貴ばれる古くからの精神も相まって、特に何か決断する時に、よく言えばすべての人に当てはまるように、悪く言えばあいまいな表現(=言い切らない)で纏めてしまう。COVID-19対策に

法滅尽経

仏教の始祖である仏陀、生きていたころはゴータマ・シッダールタと名乗っていた彼は、自らの死を迎える前に、弟子に自身の死後に訪れる「この世の終わり」がどのようなものなのかを教え伝えています。その内容は、「法滅尽経(ほうめつじんきょう)」という経典としてまとめられていますが、長きにわたって秘されていました。 とても長い経典ですが、ネットでは多くの方が和訳をのせてくださっているので、興味のある方は調べてみてください。和訳の種類によって多少解釈が異なるようですが、概ね以下のような内容が記されています。 仏陀の死後、この世は仏の教えが通用せず、罪深い者たちであふれる「末法の時代」に突入する。 末法の時代の特徴↓ 悪魔が僧侶の身なりをして、贅の限りを尽くし、酒食におぼれ、淫乱を極め、慈悲の心もなく、互いを憎み妬みあう。 仏道を極めようとする修行者を排除し、まともに仏典を理解できない悪僧が、こじつけで無理やりな知識を以て、ただ富と名声を求めて、人民を惑わす。 こうして仏法が滅しようとするとき、女は精進して徳をおさめ長生きする。男は怠け、信心することもなく、淫らな行為にふける結果、精も尽き果て早死にする。 また、世の中においては、作物が育たず、疫病が流行し、死ぬ者が多くなり、生き残った者も苦しむ。官僚は道理に合わぬ税を取り立てるようになり、人々は反乱を起こす。そして大洪水が起き、多くの者は水に溺れ、魚に食われる身となるであろう。 世界は闇にとざされ、仏法の光も届かない。しかし、数万年後には弥勒菩薩がこの世にあらわれ、仏法を以て世界に光をともすだろう。その時には、この世に毒気はなく五穀も豊穣に育ち、人々は健康で長寿の身となるだろう。 誇張した例示や表現も多く、いかにも説法らしい内容なので、オカルト的な「仏陀の預言書」という扱いで、巷では有名なのだとか。確かに、ハルマゲドンみたいな終末思想が好きな方には、人気がありそうですね。 とはいえ、COVID-19で右往左往する今日この頃においては、結構当てはまっているとの印象もあります。では、今が「末法の時代」なのでしょうか。 私は、スピリチュアルなことや超能力、霊能力の類を信じているタイプです。きっと、そちら方面の世界では、救世主的な弥勒菩薩がお出ましになり、世界を光で照らすの

正しい知識に基づいて、正しく意見しましょう

Covid-19感染拡大に伴い、我が国の政府の右往左往ぶりに国民は踊らされています。一律給付が決まった特別給付金を巡っても、財源を巡りあれやこれやのたまう国会議員たちは、それでも税金で自分たちの収入をしっかり確保する有様。国民の命が政争の具に使用され、もはや機能不全に陥っております。 さて、そんな残念な政府に比して、外国の政府が感染封じ込めのために機能的に動く姿が連日報道され、それを持ち上げる風潮が目立ってきています。 例えば、台湾。今年の1月に国内初の感染者が出た段階で、迅速に関連法律を成立させました。これは、国民の外出規制とそれに伴う刑罰を可能とする、いわば人権侵害にもつながりかねない特別法であり、実際にナイトクラブなど不要不急の外出をした人に100万円近くの罰金を課したりと、本気で法律を運用しています。 「感染を拡大させない」という政府の大義を、国民が甘んじて受け入れた、ということでしょう。その分、手厚い補償もセットにしており、私権制限とのバランスが取れています。 台湾は、国家としての独立性について議論はありますが、もともと中国本土からやってきた蒋介石が主導して建国しています。従って、その中央集権的な政治体制も中国とほぼ同じスタイルだと思います。つまり、議会が決めた政策を実行するには、最終的には大統領に相当する総統の承諾がなければならないし、非常事態には議会や法律の制限を超え、総統が大権を駆使して、決断することができます。 一方で、中国とは違って、表現の自由を含む欧米型の民主主義も取り入れており、普段は国民が自由を謳歌できる反面、今回のような国家の一大事に対して、総統と議会、そして国民が一致団結し、挙国体制を構築できることには、中国と欧米のいいところをミックスし、うまく活用できていたのではと個人的に考えています。 台湾と比較すれば、確かに日本政府の情けなさは、残念な意味で特筆すべきに値する状態です。ただ、単純に比較して「なぜ日本は、こんなに残念なんだ」と述べる最近の風潮に対し、私は少し疑問を持っています。 日本の政治は、君主の大権を著しく制限し、国民から選ばれた代表が政治を主導する英国の議院内閣制を採用しています。この議院内閣制においては、政治の最高決定機関は選挙で選ばれた国民の代理者が集う国会であり、間接的には国民が政治の最高決

歴史は繰り返す、されども。

さて、唐突ですが、ドイツの近現代史をかいつまんでみます。 第一次世界大戦の敗戦を受け、当時のドイツは巨額の賠償金を背負うこととなりました。そのために国内経済は低迷し、人々は困窮しましたが、当時の政府は無能に近く、そうした市井の声が政治に反映されませんでした。 そんな時、演説上手で人の心をつかむことに長けていたヒトラーが台頭しました。危機や困窮を巧みに利用し、人々の心をつかんでいく。この人ならばドイツを変えてくれる!と人々は熱狂し、彼は圧倒的な支持を得ていきます。これが、後のナチズムの始まりでした。 その後の歴史は、ご承知の通り。 第二次世界大戦、ホロコーストを経てナチズムは徹底的に破壊・否定され、戦後ドイツにおける「反面教師」として、この時代にも受け継がれています。 ナチズムを肯定しようものなら、刑事罰が容赦なく課せられる現代のドイツにおいて今、人々はCOVID-19の感染リスクに恐怖し、ロックダウンによる生活困窮への懸念を抱いています。 そんな、まるでナチズム誕生前夜の雰囲気に似た現状を目の当たりにし、危険な思想の台頭を許してはならない。 政権による手厚い補償、国民へのメルケル首相からのメッセージ。すべてが迅速に実施されたのは、そうした過去の過ちによる深い反省が大きいのかもしれません。 一方、日本では。 危機対応に脆弱なことが白日の下にさらされてしまった政権与党の迷走ぷり、また今は政治的対立を超え、国を挙げて困難に立ち向かおう、という気概を見せず、迷走する与党を批判するだけの野党のだらしなさ。 そして、 東京都知事や大阪府知事のように、一見行動力があり、市井の人々に寄り添っているように見える政治家の対応。 彼らの行動力が、誠のものであればよいのですが、私にはナチズムの台頭のような、その後の日本が恐ろしい方向へ行かないかどうか、というところが懸念されます。危機を巧みに利用する、彼らの姿勢が。。。 次の地方選挙、国政選挙では、私が持つ一票がどれほど重いものなのかを思い知らされます。 歴史は、繰り返すかもしれません。 ただ、同じドイツの鉄血宰相・かのビスマルクは、以下のように述べています。 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」 本来は、自分で痛い目に合う前に、他人の失敗を見て予防しておけ、という意味なのですが、今はその意味を脇に