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「言挙げ」と「言い切らない」、そしてコロナ

COVID-19感染に関り、米国ニューヨーク州のクオモ知事の活躍ぶりが報道されていますが、彼による最大の貢献は、ウィルス感染防止の対策に、科学的見地だけでなく、社会学アプローチも必要であるということを、世に示したことにあると思います。

ニューヨークの感染者が増加の一途をたどる大きな原因は、移民を中心とした貧困層に十分なケアが行き届かないことにあります。彼らは、十分な医療サービスが受けられず、また外へ働きに出かけなければ生きていけない。さらには、住居も衛生的とはいえない環境に置かれているとみられています。彼らがもし暴徒化し、街を占拠するようなことになれば、言い方はかなり悪いですが「歩く感染源」になりかねない。

クオモ知事は、ニューヨークのこうした状況を世に知らしめ、彼らをケアするために十分な財源が必要であると、ひるまずにトランプ政権、そして世界に訴え続けているのです。

日本でも同じアプローチが必要ですが、強制力と経済的な補償が不十分な緊急事態宣言によって、うまく作用しているとは言い難い状況です。その原因の一例として、日本人の中で慣習として息づいている「言挙げをせず」、「言い切らない」文化があげられると思います。

言挙げをせずとは、要するに「反論しないこと」です。日本の神話には、ヤマトタケルが伊吹山で遭遇した一匹の大きなイノシシに対し、その正体が神だと知らずに傲慢な言葉を投げつけた結果、呪われて死に至るというエピソードがあります。
このヤマトタケルの行為を「言挙げ」と呼び、神様には逆らってはならないという意味で「言挙げをせず」という考えが生まれました。もっというと、「起きたなら、文句言わずに、受け入れる」という考えに通じており、東日本大震災の時にも世界的にびっくりされましたが、自然災害が起きても、平静にしつつ、その変化に自分を適応させていく日本人の心に根付いているのかもしれません。

言い切らない、というのは、言葉に霊力があるとみる「言霊」の考えに通じています。以前、「祝いと呪い」という記事で紹介しましたが、言葉は人を祝う力も呪う力も宿します。同時に、「中庸を行く」ことが貴ばれる古くからの精神も相まって、特に何か決断する時に、よく言えばすべての人に当てはまるように、悪く言えばあいまいな表現(=言い切らない)で纏めてしまう。COVID-19対策に関する政府の公式コメントを聞くと、こうしたあいまいな表現が多く、結果的に何をしたいのか、どうあるべきなのかが見えにくくなるという循環に陥っています。

こうやって考えると、政府が発信する内容について、「お上がいうことだから、受け入れる」という受信側の受動的な姿勢、そして発信側の言葉のセンス、それぞれに原因があり、種々の混乱を招いているように思います。受信側である我々は、むやみに言挙げすることはないですが、必要な時は毅然と反論ーこれが求められているのかもしれません。

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