「茶道」という言葉にある「道」のことを考えていると、裏千家の千宗室家元が述べられている、
「道を求める」という気持ちは大切だが、「どういうのが道だとか、定める気はない」
という言葉を思い出します。
茶道のもとにあるのは、茶の湯です。しかし、茶の湯はもともと「茶道」という一つの完成された体系として、誰かが始めたものではありません。
村田珠光、武野紹鷗、千利休――。
先人たちによって、茶の湯は少しずつ形を変え、深められていきました。歴史的にも有名な利休は、その流れを決定的に深化させた人物の一人ですが、「茶道」という定義を生み出した人物ではありません。
「茶術」でも「茶技」でもなく、「茶の道」。
そこには、茶人が自ら正解のない道を歩き、生涯をかけて自分なりの答えを見つけていくという意味があるのかもしれません。
道
たとえば柔道では、「道」という言葉の意味が比較的はっきりしています。
柔道は、もともと柔術という武術の技法から生まれました。柔道の創始者である嘉納治五郎先生は、さまざまな柔術の技を整理し、安全に修練できる体系へと整え、それを「柔道」と名づけました。そして、柔道を単なる勝負のための技術ではなく、人間を鍛錬する「道」として明確に位置づけました。
その意味では、茶道にも、点前の型を学び、客人と相まみえることで礼儀作法を学び、自分の心を清浄に保つことを求めていくという、人間鍛錬としての「道」があるのだと思います。
ただ、スポーツには明確な目標があります。
柔道ならば、試合に勝つことができます。オリンピックなら、金メダルという誰の目にも分かる到達点があります。もちろん、柔道そのものはスポーツだけではありません。しかし、少なくとも競技としての柔道には、「勝った」「負けた」という明確な基準があります。
茶の湯には、それがありません。
茶会に「金メダル」も、勝敗もありません。
どれほど長く稽古を続けても、そこに勝敗や結果があるわけではなく、また次の一服が待っています。
季節が変わり、客が変わり、自分自身も変わっています。
面白いのは、茶道を深く知れば知るほど、問いが増えていくことです。
どの茶がよいのだろう。
どんなしつらえがよいのだろう。
あの客人は満足されたのだろうか。
茶の湯の世界に身を置いた当初は、とにかく稽古を重ねて型を学び、正しい手順で茶を点てることを求めればよかった。
ところが、茶名を取り、この道で生きるようになると、何を求めてこの道を歩いているのか、時々わからなくなることもあります。
答えを求め続ける
仮に型を完璧に覚えたところで、茶道は終わりません。
むしろ、そこから始まるのだと思います。
なぜこの動作なのか。
なぜこの道具を選ぶのか。
なぜ今、この花なのか。
客にとって、この一服はどのような時間になるのか。
自分は、相手に何を差し出そうとしているのか。
そして、自分自身は、この一服を通して何を感じているのか。
稽古を重ねるほど、答えが増えるというより、問いが増えていく。
そして、その問いに対して、自分なりの答えを探しながら、また次の稽古に向かう。
私は、それこそが「道」なのではないかと思います。
「道」を定義しないということ
もし宗室先生が「道」を一つの答えとして定義されていたら、後を歩く私たち若輩の茶人は、そこに到達したかどうかを判定することができます。その意味では分かりやすい。
しかし、宗室先生は、それをあえて避けられている。
明言はされていませんが、自分だけの道を探せ、とおっしゃっているのだと思っています。
道とは本来、自分の足で歩いていくものです。
誰かに与えられるものでも、何かを完成させるためのものでもなく、問いを持ち続け、歩き続ける。
稽古を通して身につけた型を通して、自分が何を見て、何を感じ、どう人と向き合うのかを問い続けていくこと。
それが、茶の「道」なのではないかと思います。
だから、茶道の「道」は、誰かから与えられる地図ではない。
自分で歩きながら、自分自身で地図を描いていくものなのかもしれません。

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