茶道の世界にいざなってくれた恩人が、急逝されたとの知らせを受けました。
前日までお元気であったとのことで、あまりに突然のことでした。
ご家族によれば、最期は穏やかであったとのこと。
それだけが、静かな救いとして心に残ります。
こうしたとき、弔いのあり方は人それぞれに現れるものだなと思います。
訃報を別の方に知らせたところ、病気や事故などの死因や享年を知りたがったり、
遺族が遠慮を求めていても、弔問や香典を申し出でたりする方もおられました。
その気持ちが弔意から来ていることは理解できます。
故人への思いが深いほど、
何かせずにはいられない、関わっていたい、きちんと送りたい。
どれも人として自然な感情だと思います。
けれども、ふと立ち止まって考えてみると、
弔いとは、いったい誰のためのものなのだろうか、という疑問が浮かんできます。
恩人の訃報に接して、かつて父を見送ったときのことを思い出しています。
当時、多くの方が弔問に来てくださった中で、印象に残っている方がいます。
その方は、父の会社の方で、父が会社に残した私物を私に手渡し、一言だけ。
「息子さん、体大事にしてくださいね」
それ以上は何も語りませんでした。
とても若く、おそらく高校卒業後に入社された方だったのではないかと思います。
その一言の奥にあるものが、静かに伝わってきました。
弔いとは、何をするかではなく、どう在るのか。
そのことを、あのとき教えられたように思います。
弔いには、いくつかの層があります。
故人のため、自分のため、そして遺された人のため。
どれも大切なものです。
ただ、自分の経験から、少なくともその場においては、
遺族への配慮を最も大切にしたいと思っています。
故人は偲ぶことができるけれど、遺族は悲しみの中で、
これからも生きていかなければならないからです。
もちろん、ご案内があれば葬儀への参列や弔問へは伺おうと思います。
けれど、遺族が遠慮を望まれているのであれば、 その静けさを尊重し、
そっと祈ることを選びたいとも思っています。
声高ではないけれど、静かに内側で整えられる弔い方もまた、確かに存在します。
残された関係を壊さず、次の形へと移していく。
その過程にこそ、弔いの本質があるのかもしれません。
今はただ、静かに祈りたいと思います。
その方への感謝とともに。

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