私に直接会われた方ならお分かりかとは思いますが、私は普段金製の指輪や腕輪を着用しています。主にはスピリチュアルな面でのお守りとしてですが、実生活ではファッションや資産価値の意味もあります。
金が好きといえば、なんだか成金趣味のような印象が持たれがちですが、私が金に惹かれる理由はそれが富の象徴だからというより、その化学的な特性によるところが大きいです。
金は鉱石として長きに亘って地中に眠っており、それが掘り起こされたものが精錬され、溶かされ、延ばされ、打たれていきます。
その結果、インゴットや硬貨、指輪などのアクセサリーや金糸にいたるまで、さまざまな形へと姿を変えることができます。
でも、どんな形となっても、金であり続ける。
その柔軟性と不変性に惹かれているのだと思います。
世界一の金に触れて
先日、オーストラリアのパース造幣局を訪れ、一トンもの純金で作られた世界最大の金貨を目にしました。
もちろん、その価値の大きさには驚かされましたが、それよりも金という存在の重みに心が惹かれました。
造幣局スタッフの説明によれば、簡単に持ち運べない1トンもの重量が何よりの防犯対策となっているとのこと。
これがコインではなく、金塊や金糸のような形であっても、重量は変わらないので簡単に盗み出せないことを強調していました。
形は変われど、その価値の重みも変わらない。
金と茶
茶の湯は、金のように形あるものではありません。
茶碗も茶杓もありますが、本質は道具ではありません。
稽古を重ねること。
客を迎えること。
一碗の茶に心を尽くすこと。
その積み重ねの中で、自分自身を整え続ける営みです。
金と茶といえば、一見すると全く異なるものですが、
今回の旅を通じて、その根底に同じものが流れていることに気づきました。
それは、 「本質を失わずに変わり続けること」 です。
1トンの金は、金貨になろうと金塊になろうと金糸になろうと、
1トンの金であり続けます。
茶人もまた、年齢を重ね稽古を繰り返すことで、変わります。
私自身も、茶道を始めたばかりの頃と茶名を取っている今とでは考え方も違うでしょう。
当然、点前への姿勢も、茶人として見る景色も違うと思います。
しかし、変化は本質を失うことではありません。
むしろ、本質をより純粋に現していく過程なのかもしれません。
金は精錬によって金になると思われがちですが、
金は地中に眠っているときからすでに金です。
精錬とは、不純物を取り除く行為に過ぎません。
茶の湯でも、稽古によって何か新しい自分を作るのではなく、 もともと自分の中にある大切なものを覆っている雑念や執着を少しずつ取り除き、本来の自分を現していくものと考えています。
パースで見た巨大な金貨は、単なる観光名所ではなく、
長年茶の湯を通して学んできたことを、別の形で私に見せてくれた存在でした。
金も茶も、その姿は違います。
けれども、その奥に流れるものは、
同じなのかもしれません。

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