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孤独。違う、それは「ソロ活動」だ。

この写真は、ウィキペディアで「孤独」を検索すると表示されるものです。(引用元は、下にある注釈ご参照)

孤独と聞くと、なんだか淋しい感じがしますね。

英語で言うと「loneliness」(ロンリネス)でしょうか。

しかし、孤独という英単語には、lonlinessのほかに「solitude」(ソリチュード)もあります。日本語では、どちらも「孤独」と訳されるのですが、英語だとニュアンスが違うのです。



学生時代から愛用している「Longman 現代英英辞書」から、それぞれの意味を引用してみます。

Lonelines:
unhappy because you are alone or do not have anyone to talk to
(一人、もしくは話し相手がだれもいないため、不幸せな状態)

Solitude:
when you are alone, especially when this is what you enjoy
(一人の時。特に、その状態を楽しめている時のこと)

 

英語の定義からして、明らかにトーンが違いますね。


lonelinessは不幸せなのに、solitudeは一人であることを楽しんでいることが明記されています。しかも、孤独が不幸せな理由として「話し相手がいない」、要するに友達や家族がいない、ということをはっきり言及するあたり、さすがはLongman。わかりやすい。


日本語でも、「孤独」と聞くとネガティブなイメージがありますが、例えば「おひとり様」というと、ネガティブさは薄まるような印象を受けます。前者がloneliness、後者がsolitudeに近いかもしれません。また、solitudeは「ソロ活動」「ソロアーティスト」など、一人で活動するときに使われる「Solo」と語源は同じため、より前向きなイメージが持てます。


最近、Youtubeではお一人様や「〇〇ぼっち」のように、一人暮らしや一人飯のような、solitude寄りの動画の人気が高まっていると耳にしました。
そういう傾向を特集したテレビ番組で、専門家が「日本人には同調意識が強く、ムラ社会の名残で、集団から逸脱すると仲間はずれにされ、孤立しやすい」、「他人に合わせたり、集団行動が苦手な人が、自分は大丈夫との自己肯定感を高めたいという意識」が、お一人様動画の人気に拍車をかけているのだそうだ。

コロナでソーシャルディスタンスを求められる時節柄、lonelinessではなくsolitudeな自粛生活を送りたいですね。
一人だからと言って自分を卑下せず、「むしろソロ活動していますが、何か問題でも?」というスタンスのほうが、これからの時代は生きやすいのかもしれません。

 

さて、冒頭の写真。題名は「孤独」なのですが、LonelinessとSolitude、どちらが正しいでしょうか。正解は、下にある引用元を見ればわかります。

 

写真:Retrieved on 2021/2/5 from https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Frederick_Leighton_-_Solitude.jpg#/media/ファイル:Frederick_Leighton_-_Solitude.jpg

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