スキップしてメイン コンテンツに移動

天地ではなく「地天」(易経からコロナを考えてみる)

ニューノーマルとよばれる、コロナ後の新しい生活様式。言い換えると、リモートワークやテイクアウトなどといった、人々の直接的なつながりを抑えるような動きと言えそうです。

コロナ禍はまだ収まっていませんが、仕事やプライベートで直接的な交流が当然とされてきた世の中から、少しずつ変わり始めています。

この「当たり前」の基準が変わっていくことについて、中国より古くから伝わる「易経」を参照してみると、古代の人はしっかり見抜いていたのでは、と思われる節があることに気づかされます。

 

易経は、東洋占術の一種です。
万物を「天、沢、火、雷(震)、風(巽)、水(坎)、山(昆)、地(坤)」という8つの要素で表し(八卦)、さらにこれらを上卦/下卦に分け、計8×8=64通りの組み合わせからランダムに選び、その結果を占うことが主な内容です。自然と人間の動きは同一、という考えに基づいています。

八卦の最初と最後は、「天」と「地」。
文字通り、天は空や太陽、地は地面や土を指しており、上卦/下卦の組み合わせでは、「天地」と「地天」の2通りがあります。

この2つ、似ているようで、意味が大きく違うのです。

天=空は上、地は足元という意味で、「天地」は普段我々が目にする光景です。ところが、易経では「天地」は「否」、つまり「良くない」と述べています。
反対に、「地天」、上下がひっくり返った状態を「泰」、安泰としているのです。

 

中国では、氣功や風水、方位学の奇門遁甲といった例にみられるように、目に見えない「氣」の流れというものを重視します。易経も同じで、八卦が表す万物には固有の「氣」があり、自然の原理に基づいて、これらが絶えず流動していると考えられています。

この考えによると、天は上へと昇り、地は底へ下るという、正反対の氣の流れがあるとされています。すると、「天地」では氣が交わらず、逆に「地天」だと氣が交わることがわかります。

天:氣の流れ ↑
地:氣の流れ ↓
→氣は交わらず。「天地否」

地:氣の流れ ↓
天:氣の流れ ↑
→氣が交わる。「地天泰」

以上から、「天地」では富める者はさらに富み、卑しき者はさらに身を落とすという二極化を示し、争いが絶えないと考えられるため、「否」とされています。一方、「地天」は正反対の2つが融合・調和する関係性だから、「泰」となるわけです。

 

「天地」が普段目にする当たり前の光景だけど、実はその逆が本来のあるべき姿。
比喩的ではありますが、コロナの影響でこれまでの当たり前から脱皮しなくてはならないけれど、実はその方が我々にとって正しい方向性なのかもしれない、と気づかせてくれる出来事でした。


古代の人々の叡智は、今のような思うようにいかないときにこそ、上手に活用したいですね。

コメント

このブログの人気の投稿

Shaolin Temple Europe: Exploring the Intersection of Tradition and Modernity

In the heart of Germany lies a haven of ancient wisdom and martial arts mastery: Shaolin Temple Europe . My recent trip to Germany, accompanied by a friend who is a licensed Qigong trainer, led us to this remarkable place. For her, the opportunity to delve into the teachings of Shi Feng Yi , the esteemed headmaster of Shaolin Europe, was a dream come true. Visiting the temple was the pinnacle of our itinerary, and after much anticipation, we finally set foot within its hallowed grounds. Although Master Shi was away on a journey to spread his profound knowledge of Qigong and Gongfu across the globe, our disappointment was quickly dispelled by the warm welcome we received from a monk named Miao. Miao, hailing from France, exuded a serene aura that spoke volumes of his dedication to monkhood. His very name, bestowed upon him in the tradition of Buddhism, hinted at the depth of his spiritual journey spanning several years. Despite Master Shi's absence, Miao graciously guided us through...

茶道における「おもてなし」の本質

茶道は日本の伝統文化の一つであり、客をもてなす心が大切だと言われています。しかし、私はお点前をする際、少し異なる観点を持っています。それは、「お点前さんは客をもてなす存在ではなく、茶器や茶釜、茶杓たちと同じ『茶を点てる道具の一部に過ぎない』」という考え方です。この視点を持つことで、自我を極力排し、茶を点てる行為そのものに専念するようにしています。 「おもてなし」と「表無し」の違い 一般的に「おもてなし」という言葉は、「客をもてなす」という意味合いで使われます。しかし、私の師匠から教わったのは、「おもてなし」を「表無し」として捉えることの大切さです。 表がなければ裏もない。これが「表無し」の本質です。確かに、誰かを特別にもてなすことは、その人に幸せを感じてもらえますが、同時に他の人をもてなさないという区別が生まれ、不満が募る原因にもなり得ます。茶道の精神において、これは避けるべきことです。 もちろん、相対するお客さんによっては、多少作法に差は生じます。古くは天皇や皇族方、将軍や大名といった特殊な立場の人々、現代では経営者などの立場のある方と私たちのような一般の方とでは、その方々が茶室で窮屈な思いをしないよう、点前の作法や使う茶碗を普段のものと区別して気遣うということはあります。ただ、目の前にある一碗の茶自体が、人を取捨選択、区別しないことは常に意識しています。 茶席で客をもてなさない、という意味では決してありません。お客さんへの気遣いやもてなしについては、アシスタントである半東さん(はんどう:接客役のようなもの。茶会では、お点前さんと半東さんの二人体制で茶席を差配します)にお任せして、茶を供する点前役としては、表も裏もつくらず、ただ目の前の茶を点てることだけを念頭に置いています。半東さんがいないときは、自分一人でお点前ももてなしもするわけですが、それでもお点前中は静寂を保ち、一切の邪念は振り払うようにしています。 無心で茶に語らせる 私たち人間は完璧ではありません。目の前の客に心を注ぐことはもちろんできますが、同時に周囲のすべてに気を配るのは容易ではありません。だからこそ、「表」を意識せず、「裏」を作らず、ただ無心で茶を点てる。点てた茶そのものが、香りや風味などで語り始めるのを待ちます。 茶道において、道具たちは私たちと同じく主役の一部です。茶釜が湯の音を奏で、茶杓が...

茶道人口の減少

昨年末に地元で、学生時代の後輩と飲みに出かけました。彼は、私が茶道家であることをしっているので、その酒の席で、数年前の茶席での経験を教えてもらいました。 彼は、大学時代の茶道部OBの友人に誘われ、茶道部の現役学生とOBが取り仕切る大寄せの茶会に参加したそうです。茶道初心者の彼が、何とか見様見真似で体験したものの、敷居の高さや作法の難しさ、さらには周囲の雰囲気に押されて、かなり苦労したとのことでした。 例えば、茶席では扇子を携帯するのが一般的です。扇子は、挨拶や金銭の受け渡しの際に敷物として使うなど、礼儀の一環として必要なアイテムです。しかし、持っていなくても別にどうってことはないと私は思うのですが、彼は律儀にも下調べして扇子を携帯したようです。ただ、茶道用の小ぶりなものではなく、普通の仰ぎ扇子を持参したそうで、周囲の人からじろじろ見られ、恥ずかしい思いをしたと言います。 さらに、正座も大きな負担だったそうです。慣れていない人にとって、長時間の正座は非常に辛いものです。気遣いのできる亭主であれば、「脚を崩しても大丈夫です」と声をかけてくれるものですが、今回はそういった配慮がなかったとのこと。それにもかかわらず、茶席は由緒ある寺院で行われ、濃茶席、茶懐石、薄茶席と順々に案内され、一つ一つ丁寧に説明があったそうです。脚の痛みを我慢しながらなのでせっかくの説明も上の空で聞く羽目になり、脚を崩したいことも言い出せず、ひたすら苦しい時間だったと話していました。 この話を聞いて、私は茶道家として非常に心苦しく感じました。確かに正座や扇子といった作法は、茶道を学ぶ者にとって基本の礼儀です。しかし、茶道に馴染みのない人への心遣いや配慮が欠けていたことが、後輩のような初心者にとって茶道が遠い存在に感じられる原因になったのだと思います。 こうした排他的な側面が、茶道人口の高齢化や減少に拍車をかけているのではないかと考えます。茶道は本来、形式や礼儀だけではなく、「和敬清寂」の精神を通じて、人々に安らぎや幸せを提供するものです。しかし、その根幹を忘れ、形式ばかりが先行してしまうと、初心者や若い世代にとっては高い壁となってしまいます。 年末にこのような話を聞けたことは、茶道家として改めて自分のあり方を考える機会となりました。茶席が初心者や一般の方にも楽しめるものになるように、作法や形式に固執す...