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統一地方選挙を応援してみて

今回の統一地方選挙の平均投票率が、全国的に50%を切ったと報道されました。

私の住む地域では、前半の府知事/府議選、後半の市長/市議選ともに50%を超えていたので、平均以上であったということでしょうか。

 

私は今回、府議、市長選それぞれに立候補した2人の友人の支援に回り、
選挙運動を裏方として直接見てきました。

その中で気づいたのは、この国の民主主義はまだ発展途上だということ。

 

民主主義の根幹は「選挙制度」ではなく、
一人一人が自分のことのように物事を判断することにあります。
その延長線上に選挙による投票行為があると思っています。

しかし、普段の買い物だったらいざ知らず、
殊に政治の話題となると、そうした個々の判断がなかなか難しくなるようで、


・「人気がありそう」とか「イケメン」、「学歴」「年暦」「性別」といった要素

・特定の政党や候補者への好き嫌い、といった感情

・会社や団体との付き合いなどなれ合い

 

といった外的要因にて投票する傾向が、今も大勢を占めることも実感しました。

 

そもそも、有権者の半分が投票に行かないという時点で、民主主義は成り立っていません。

 

それを「意識が低い」とか「なぜ投票に行かないのか」という怒りや悲しみに替えて、活動のエネルギーにする方も仲間内にはいましたが、私はそういう面では割と冷静だったと思います。

 

****

右翼的な発言かもですが、

神話上のつながりも含め、初代・神武天皇の即位を起点とし、
日本建国から2700年弱経過したとされています。

その全期間にわたり、天皇、あるいは上皇や法皇という
超越的な権威が存在していました。

戦後、天皇は政治に対する権威を失い、「国民統合の象徴」として
存在していますが、そんな象徴制度が始まって、まだ100年も過ぎていません。

また、鎌倉時代以降は、天皇の勅命を受け、やっぱり超越する権威を得た
征夷大将軍が政治をつかさどってきました。

封建的、つまり権威のある君主が国土を統治し、人々はその権威に従う構造が長い間続いていたわけです。

そして、近代になって「民主主義」という概念が入ってきましたが、

自分たちで作り上げたというよりは、立憲君主制民主主義の先輩・英国から
システムを導入したわけであり、
日本ならではのオリジナリティはあまりなかったと考えられます。

さらに、女性が選挙権を得るのにこれまた時間がかかりました。

 

だから、日本での民主主義は、都合2700年間続く歴史の中で、
外部からやってきたもので、かつ200年にも満たない年齢でしかないわけです。

→人生100年の時代、引っ越してきた7歳児と同様であるのが我が国の民主主義。

 

差し引いて、2500年間封建的な社会であった時間的な圧力と、
戦後の占領期を除いて他国あるいは他国民に支配されたことのない歴史、
そして外部からの流入=転校生のような「よそ者扱い感」からして、
現代においても封建的な考え方を引きずっているのは、仕方がないことだと思っています。

 

だから、今回の選挙の投票率が低いのも、票を投じる基準が浮ついた感じなのも、
あるいは特定の政党や政治家が数の力で政治を押し切る風潮にあるのも、
「それが今の日本の伝統お家芸」と思っていたほうが、よいかもしれません。


**** 

さて、7歳の子供というと、もう自我はしっかりと発達しており、
小学校に上がって、言葉も社会性も発達してきている年頃です。
転校生でも意志を持ち、自ら声を発して友達を作ることを覚えていく頃でしょう。

 

今回の選挙運動で、我々の立候補者の政策に対し、
選挙権を持たない若い世代の反応がすこぶるよかったです。

また、民主主義大国・アメリカで育ったとか、
外国で生活・留学していたという「外の世界」を見てきた
大人たちの反応も上々でした。

さらに顕著だったのは、政策には賛同するけど、
上述したような外的な理由で違う候補者に投票した方が多かったということ。
最後の投票時にいつものお家芸を発揮してしまい、
勇気が持てなかったということに尽きる人々ですね。

 

彼らこそ、自分の声を持ち始めた「民主主義ちゃん7歳児」なのかもしれません。

 

この国の民主主義が、7歳の小学生と同じ。
教育次第で、いかようにも化ける存在。

そんな風に思えば、これからの社会、
そう悲観することもないのかもしれないとも思います。

 

「選挙に行かないなんておかしい!」と怒るわけでもなく、
浮ついた理由で投票する人を蔑視するわけでもない。
「〇〇政党は、悪だ」「あの政治家は、頭おかしい!」といった外部環境に
理由を求めない。

 

民主主義って何だろう。

これって、自分の人生にどう影響するのだろう。

 

これを問うことが大事だし、我々大人が常に問い続けることが
未来の世代につながるのだろうと思います。

 

今回落選した私たちの友人たちも、

自分の政策を小さくてもいいから実現し、民間人として
まずは実績を積むことにシフトしていっています。

 

常に問い続け、前進し続ける。

小さくても、それしか道はないのだと思います。

 

私も、今回得られたことを糧にして、

問い続けていくことにします。

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