「おおやけ」 とある方と、「公共」における「おおやけ(公)」の考え方を巡り、深夜に及ぶ議論を繰り広げた。 まず「公」には、以下のような相反する意味が同時に内包されている。 「公」は世間一般という観点で、「公共」というと「どなたでも使える」ような意味を持つ。 一方、「公」には「大きな家=おおやけ」という意味で、大きな力を持つ権力、古くは朝廷や公家、現代では政府や行政をさすこともある。 まったく方向の違う考え方が、同じ言葉に共存する。 謎である。 さて、「公」の考え方に、「公私」の別がある。 「公=表向き(パブリック)」 「私=表ではない向き:プライベート」 そこには、「公」を一つ一つの「私」の集合体(わたしたち)とする見方が含まれている。 この時、留意しなくてはならないのが、「公」にとらわれすぎると、必ず「私」が反乱するということ。 例えば公園などの公共の場について、その使用者は「個人(私)」や「個人の集団」である。 すると、最初は良くても、時を経るごとに必ず個々の私的な都合が生まれ、やがてルール違反や対立などのいさかいが増える。 そしてルールを逸脱すると、「村八分」のような差別や孤立が生まれる。 どなたでも同じ=平等、公平を生み出すのに、 「公」を前面に出せば出すほど、不平等や不公平の芽も同時に自ら生み出している。 深夜に及んだ議論を経ても、この矛盾を乗り越えることが出来ない。 もしかすると、「公」に相反する意味があるのは、用量を守れば良薬だが、使いすぎると毒に変化するのと同じで、「公過ぎずに、公を求める」いい塩梅を探せということなのか。 すぐに見つかる答えは、ないのだと思う。 でも、考え続けるべき深い問題なのかな、という哲学モードに入る、秋の夜長直前の夜
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