徳川将軍家の茶道指南役として取り立てられ、武家茶人としては最高峰に上り詰めた片桐石州ですが、意外なことにその子孫は茶の湯を受け継ぐことはありませんでした。 血筋ではなく人柄が受け継ぐもの 石州自身は、特に自分の子息に茶道を継がせようとは考えていなかったようです。それよりも、自分がこれぞと思う人物へと伝授することを重視していたようです。 千利休の血筋が伝える千家(表千家、裏千家、武者小路千家)とは違い、利休の長男・千道安の教えを受けた桑山宗仙を介して侘茶を学んだ自身の経緯に鑑み、石州は血筋ではなく茶の湯を深めていきたい人が嗜めばいい、ということを重視していました。自らの茶を広めよう、茶で名声をなそうということにはあまり興味を持っていなかったようです。 その分、教わりたいという人には惜しみなく自分の極意を伝え、伝えた後はその人の自主性に任せる。そのために、大名家や仏門の人々、自分の家臣から皇族に至るまで、幅広い人物が石州の師事を仰ぎ、学んでいきました。 片桐家自体も、石州から数えて8代目の貞信が新石州流を興しましたが定着していません。また、戦後は様々な変遷を経て、石州流宗家を名乗る2派(片桐家が興した「石州流茶道宗家」と石州の教えを守ってきた家臣家を軸に据えた「茶道石州流本家」)が存在しています。 共存共栄 石州流としては、現在は大まかに、2つの宗家を家元として仰ぐグループ、石州が父親の菩提を弔うために建立した慈光院(奈良県大和郡山市)を中心としたグループ、石州の墓がある京都大徳寺・芳春院を宋元とするグループに分けられます。さらに、仙台藩の流れをくむ清水派や島根・松江藩の松平不味が始めた不味派(不味流)など、独立して継承されていったものもあります。 このように石州流は、石州の名のもとにたくさんの派閥が並立する稀有な流派ではあるのですが、根底にある教えや本質は共有しつつ、様式や価値観を異にするグループ同士が共存共栄、切磋琢磨する形で武家茶道としての伝統を受け継いできています。 こうしてみると、石州の子孫ではなく、石州の茶に触れて感銘を受けた片桐家の家臣や多くの武将、茶人がそれぞれに残していったものが、独立して発展を遂げていったという歴史が、石州流が茶道の世界において独特の存在感を放っている背景なのだと思っています。 茶道の世界において、「石州流に属している」というと、もの...
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