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抹茶について

茶道で使用する抹茶には、流派ごとに「好み」というものがあります。たとえば、表千家好みや遠州流好みといったように、伝統的に使用される銘柄があるのです。これは、その流派の家元やお師匠さんが長年愛用してきたものが受け継がれた結果といえます。 私の学ぶ石州流にもさまざまな「好み」の抹茶がありますが、特によく用いられるのが、宇治茶の名店 「上林三入(かんばやしさんにゅう)」 と、その兄弟店である 「上林春松(かんばやししゅんしょう)」 です。 上林三入(かんばやしさんにゅう) 上林三入は、室町時代から続く宇治の老舗茶舗で、代々天皇家や将軍家に抹茶を献上してきた歴史を持ちます。その品質の高さから、茶道各流派でも長く愛されており、石州流でも好んで使用される銘柄の一つです。濃茶にも適した、深みのある旨みが特徴です。 しかし、上林三入の抹茶を手に入れるのはなかなか大変です。宇治に本店を構えているものの、それ以外には一切支店を出しておらず、百貨店にも置かれていません。さらに、通販サイトでもほとんど見かけることがなく、本店の公式ホームページでのみ購入できます。ただし、抹茶のシーズンともなると「電話でお問い合わせください」と表示されることが多く、入手のハードルはかなり高めです。 上林春松(かんばやししゅんしょう) 一方、上林春松は、上林三入の流れをくむ兄弟店で、江戸時代から続く名店です。こちらも宇治抹茶の伝統を受け継ぎ、香り高く、まろやかな味わいの抹茶を提供しています。茶道の世界でもよく知られ、多くの流派で愛用されています。 春松のほうは、より手堅くビジネスを展開しており、大手百貨店にも出店しています。さらに、緑茶ドリンクとして有名な「綾鷹」の監修を手掛けていることでも知られています。通販でも比較的手に入りやすく、上林三入と比べると入手の難易度は低めです。 私の好み 私は、三入のほうが好みです。もちろん、春松のお茶もおいしいのですが、初めて師匠に入門したときに飲ませてもらったのが三入のもので、その味が自分の茶道のベースになっているからです。初めて飲んだときのまろやかさと奥深い余韻が、今でも忘れられません。 とはいえ、三入は入手が難しく、普段使いするには手間がかかります。宇治の本店まで出かける必要があるため、日常的には春松で買い求めています。春松の抹茶も品質が高く、入手しやすいので重宝し...
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旅茶碗

茶道に欠かせない抹茶碗の中には、「旅茶碗」という種類があります。これは旅先にも持ち運べるよう、小ぶりに作られた抹茶碗のことです。サイズが小さくても、茶道具としての機能性はしっかり備えています。たとえば、茶だまりや高台がきちんと作られており、お点前にも十分使える構造です。 私自身、プライベートでは奈良絵を施した 赤膚焼 の旅茶碗を愛用しています。この茶碗は、コンパクトなサイズ感が特徴で、茶筅を使う際には少し工夫が必要です。茶筅が入りづらい分、力加減を調整しながら点てることで、しっかりとした抹茶を楽しむことができます。また、収納スペースを取らない点も旅茶碗ならではの魅力です。 普段の稽古や茶席では、手指が長いこともあって大ぶりの茶碗を使うことが多いのですが、小ぶりな旅茶碗のかわいらしいフォルムには、また違った愛着を感じます。旅行に持参して特別な時間を演出するのもいいですし、自宅で気軽に使うのもおすすめです。 旅茶碗は、コンパクトさと機能性を兼ね備えた茶道具として、日常の中にちょっとした非日常感を与えてくれる存在です。もし旅茶碗をまだお持ちでない方がいれば、ぜひ一度手に取ってみてください。その小ぶりな形に秘められた奥深さを感じられるはずです。

節分

2月といえば節分。「鬼は外、福は内」と言いながら、鬼に煎り豆を投げつけて邪を払うことが風物詩となっていますね。 幼いころの私は、この鬼が怖すぎて、節分が憂鬱だった記憶があります。それが父親や幼稚園の先生だと分かっていても、鬼の仮面をかぶって襲ってくるふりをされるとギャン泣きしていました。さらに、「豆を投げつける」という行為がどうしても暴力的に感じられて、実力行使ができずに逃げ回るばかり。「豆をあげるから、あっち行って!」と泣きながら豆を差し出していたような子供でした。 大人になってからはさすがに泣くことはありませんが、三つ子の魂百までとはよくいったもの。今でも、鬼は好きで鬼になっているわけじゃないのに、豆を投げつけられてかわいそうだな……と思ってしまいます(笑)。 ちなみに、投げつけられるのは大豆、つまり「偉大な豆」と書くものですが、本来は神様に捧げる神聖なものとして重宝されていました。そのままであれば土に返すと芽が出る可能性があるのですが、あえて煎ることで発芽できないようにしているわけです。このあたりに、なんだか「豆を殺している」ような感覚があり、個人的には少し複雑な気持ちになります。また、「魂」や「鬼籍に入る」という表現に見られるように、鬼という存在は我々の大切な部分を象徴しているのではないかとも思えてきます。そんな鬼を、煎ってしまった豆で退治するという光景が、どうしても私にはしっくりこないのです。 とはいえ、茶道の世界でも節分にちなんで茶会が催され、時節に応じた茶菓子が供されることがあります。鬼の顔をかたどったお菓子や、福豆を模した干菓子など、趣向を凝らしたものが多く、茶席で出されるとつい手を伸ばしてしまいます。 しかし、個人的には節分の際に自分から煎り豆を食べることはほとんどありません。呼ばれた茶席で供されればいただきますが、普段は煮豆や豆大福などをお供に茶を一服するようにしています。甘辛く炊いた煮豆は、なぜか薄茶に合うのですよね。砂糖の甘みと醤油の風味が、お茶のほろ苦さと調和して、心がほっと落ち着く味わいになります。 節分といえば邪気払いの行事ですが、茶道においても、新しい季節を迎えるにあたって心身を清めるという意味では共通するものがあります。だからこそ、形式にとらわれず、自分に合った形でこの行事を楽しみながら、日々の一服を大切にしていきたいものです。

茶道人口の減少

昨年末に地元で、学生時代の後輩と飲みに出かけました。彼は、私が茶道家であることをしっているので、その酒の席で、数年前の茶席での経験を教えてもらいました。 彼は、大学時代の茶道部OBの友人に誘われ、茶道部の現役学生とOBが取り仕切る大寄せの茶会に参加したそうです。茶道初心者の彼が、何とか見様見真似で体験したものの、敷居の高さや作法の難しさ、さらには周囲の雰囲気に押されて、かなり苦労したとのことでした。 例えば、茶席では扇子を携帯するのが一般的です。扇子は、挨拶や金銭の受け渡しの際に敷物として使うなど、礼儀の一環として必要なアイテムです。しかし、持っていなくても別にどうってことはないと私は思うのですが、彼は律儀にも下調べして扇子を携帯したようです。ただ、茶道用の小ぶりなものではなく、普通の仰ぎ扇子を持参したそうで、周囲の人からじろじろ見られ、恥ずかしい思いをしたと言います。 さらに、正座も大きな負担だったそうです。慣れていない人にとって、長時間の正座は非常に辛いものです。気遣いのできる亭主であれば、「脚を崩しても大丈夫です」と声をかけてくれるものですが、今回はそういった配慮がなかったとのこと。それにもかかわらず、茶席は由緒ある寺院で行われ、濃茶席、茶懐石、薄茶席と順々に案内され、一つ一つ丁寧に説明があったそうです。脚の痛みを我慢しながらなのでせっかくの説明も上の空で聞く羽目になり、脚を崩したいことも言い出せず、ひたすら苦しい時間だったと話していました。 この話を聞いて、私は茶道家として非常に心苦しく感じました。確かに正座や扇子といった作法は、茶道を学ぶ者にとって基本の礼儀です。しかし、茶道に馴染みのない人への心遣いや配慮が欠けていたことが、後輩のような初心者にとって茶道が遠い存在に感じられる原因になったのだと思います。 こうした排他的な側面が、茶道人口の高齢化や減少に拍車をかけているのではないかと考えます。茶道は本来、形式や礼儀だけではなく、「和敬清寂」の精神を通じて、人々に安らぎや幸せを提供するものです。しかし、その根幹を忘れ、形式ばかりが先行してしまうと、初心者や若い世代にとっては高い壁となってしまいます。 年末にこのような話を聞けたことは、茶道家として改めて自分のあり方を考える機会となりました。茶席が初心者や一般の方にも楽しめるものになるように、作法や形式に固執す...

新年の「初釜」と「花びら餅」

今日は新年にちなみ、初釜とその時に出されるお菓子:花びら餅についてお話します。 初釜と花びら餅 新しい年の初めに行われる茶席を「初釜」と呼び、これはお茶の世界において、非常に大切な儀式となります。 初釜の際には、新年を祝う意味も込めて、特別な茶菓子が出されます。それが「花びら餅」なのです。花びら餅は、見た目にも美しく、柔らかな餅に花の形をした薄紅色の餡が包まれています。これは新春の象徴であり、正月ならではの風物詩とも言える存在です。 特に京都では、この風習があるようですね。 花びら餅は、正式には「菱葩餅(ひしはなびらもち)」と言いまして、ごぼうとみそあんと菱形で紅色の餅を、円形の白い餅もしくは求肥を二つ折りにして包んだ和菓子です。もともとは、平安時代の宮中で、新年に執り行われた「歯固めの儀」の際に天皇に献上された食べ物が由来とされています。歯が健康=長寿であるとみなし、天皇に固いものを食べてもらって歯を固めることで、長寿や繁栄を願ったとされています。また、「宮中雑煮」とも呼ばれ、天皇や皇族方、公家などの高貴な人々にとっての雑煮としても食されていました。 現在の花びら餅は江戸時代に完成したものがそのまま継承されており、硬いどころか非常に柔らかいものです。ただ、その由来から特に新年にぴったりの茶菓子として、お正月の茶席で欠かせません。その繊細な風味と美しさは、茶の席に華を添えるだけでなく、心を和ませてくれるものです。 私自身、毎年、師匠との初釜(初稽古)では、必ず花びら餅を頂きます。しかし、稽古前に一人でゆっくりと「一人初釜」を楽しむのもまた格別です。家で静かな時間を過ごし、自分で茶を点て、花びら餅とともに自服するひとときは、心からのリフレッシュとなります。今年も、この風情ある時間を楽しみながら、日々の茶道を深めていきたいと思っています。 初釜に限らず、こうした伝統の中で感じることのできる穏やかな美しさが、新年を迎える力強いエネルギーを与えてくれます。今年も、日々の茶道とともに、心豊かな時間を大切にしていきたいと思います。

道具の良さを引き立てるために

私は、背が高くて手足が長く、かといって筋肉もないので、いってみれば「ひょろっと男子」です。でも、その手足のリーチのおかげで、他の人と同じような点前を披露しても、なぜか「立派そうに見える」ことだけは誇っています(笑)。また、手指が細く長いこともあり、よく言えば「優雅に」、冗談めかして言うと「ちょっと女子っぽい?」指の動きで、人々が勝手に感動してくれることがあります(笑)。これまでコンプレックスだった体型が、茶道では有利に働く場面もあるものだと感じています。 茶道具についても同様に、形は様々ですが、点前座にいる私がどのように彼らに触れ、使っていくかで道具の見え方が変わります。使い方次第で、茶道具の美しさを引き出すことができるのです。 例えば、釜から湯をすくう際に使用する柄杓は、円筒状の先端(合:ごう)と取っ手(柄)から構成されます。簡単に言えば「長さのあるおたま」のような形状ですが、柄杓を手に取るときには、できるだけ柄の端に手を添えることで、華奢な柄杓を細く長く見せ、まるでパリコレのモデルのようにスタイリッシュな印象を与えることができます。 一方で、丸みのある茶器に関しては、宝玉を扱うようにゆったりと手のひらに置くことで、その丸みが強調され、愛嬌のある美しさが引き立ちます。 石州流では、このような「道具の見せ方」を意識した作法が多いことも特徴的です。師匠からは、私自身の体型、特に手指の長さは、お点前中に道具をよく見せるための「必殺武器」だと言われています。というのも、柄杓や茶杓のような長さのある道具を取り扱う際、私の長い手指も相まって「道具が生きているように見える」とのこと。それを活かして、自分なりの「優雅な点前」を完成させなさいと、師匠からはしょっちゅう言われています。 茶室という舞台では、主役の茶だけではなく、茶道具も大切なキャストとして引き立たせる役割をお点前さんが担っています。私の場合は親譲りの手足と指の長さを活用していますが、他のお点前さんにもそれぞれの個性があります。それでも、道具をキャストのように扱うことに変わりはありません。 茶席に呼ばれるようなことがあれば、お点前さんがどのような演出をしているのかという点にも注目してみてはいかがでしょうか。

茶道具を撫でるという作法

私が茶道家として所属しているのは、「石州流大口派」です。 最近、他流派の方が我々の点前を見ると、総じて「作法がきれい、丁寧」と褒めていただくことが多いです。 色々珍しいのか、点前を披露した後に質問攻めにあうこともあるのですが、多くの方に注目されるのが、手指を使って「道具を撫でる」という独特の行為です。 一般的にどの流派でも、点前中に茶道具を袱紗(ハンカチのようなもの)で拭い、ほこりを払って清めることは共通しています。しかし、私たちはこれに加えて、特に濃茶席を設ける際に、茶器(抹茶粉を入れる容器)や柄杓(茶釜からお湯をすくう杓)を指の腹で払い、さらに清める作法を含めています。 作法の由来と精神 この作法は、石州流の流祖である片桐石州が「茶席に持ち込むものは特に清潔であるべき」という精神を重んじていたことに由来します。 戦国大名であった石州にとって、自分が点てた茶に少しでも穢れが含まれ、それが毒となって万が一にでも仕える将軍にとって仇となれば手打ち、武士として腹を切る覚悟を求められるほど、一つ一つの茶席が命がけだったのかもしれません。鋭い刀の切っ先のごとく、この「清廉潔白」さは当流の作法の隅々にいきわたっています。 また、石州流と一口に言っても、そこには枝葉のような流派が多く存在しています。このうち、私が所属する「大口派」では、創始者・大口樵翁が香道を嗜んでいたことにちなみ、点前に香道の作法を取り入れ、優雅な手指の動きを取り入れて発展させたと聞いています。 道具との友情 この作法は清潔さを重んじるためのものですが、私自身は茶道具の「頭を撫でる」ような気持ちで行っています。それは、子供を愛おしむことにも似ています。変な話ですが、お点前さんも茶道具の一部という思いを持っているからこそ、物言わぬ道具たちとの信頼関係を深めることで、よりおいしい茶を点てられるよう協力してもらうという意識を持っています。 不思議なことに、このような気持ちで茶道具を撫でていると、茶の味がまろやかになるように感じるのです。道具たちに敬 意を払いながら点てた茶が、心を通わせる一杯としてお客様のもとに届いてくれるよう願っています。