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2月, 2025の投稿を表示しています

抹茶について

茶道で使用する抹茶には、流派ごとに「好み」というものがあります。たとえば、表千家好みや遠州流好みといったように、伝統的に使用される銘柄があるのです。これは、その流派の家元やお師匠さんが長年愛用してきたものが受け継がれた結果といえます。 私の学ぶ石州流にもさまざまな「好み」の抹茶がありますが、特によく用いられるのが、宇治茶の名店 「上林三入(かんばやしさんにゅう)」 と、その兄弟店である 「上林春松(かんばやししゅんしょう)」 です。 上林三入(かんばやしさんにゅう) 上林三入は、室町時代から続く宇治の老舗茶舗で、代々天皇家や将軍家に抹茶を献上してきた歴史を持ちます。その品質の高さから、茶道各流派でも長く愛されており、石州流でも好んで使用される銘柄の一つです。濃茶にも適した、深みのある旨みが特徴です。 しかし、上林三入の抹茶を手に入れるのはなかなか大変です。宇治に本店を構えているものの、それ以外には一切支店を出しておらず、百貨店にも置かれていません。さらに、通販サイトでもほとんど見かけることがなく、本店の公式ホームページでのみ購入できます。ただし、抹茶のシーズンともなると「電話でお問い合わせください」と表示されることが多く、入手のハードルはかなり高めです。 上林春松(かんばやししゅんしょう) 一方、上林春松は、上林三入の流れをくむ兄弟店で、江戸時代から続く名店です。こちらも宇治抹茶の伝統を受け継ぎ、香り高く、まろやかな味わいの抹茶を提供しています。茶道の世界でもよく知られ、多くの流派で愛用されています。 春松のほうは、より手堅くビジネスを展開しており、大手百貨店にも出店しています。さらに、緑茶ドリンクとして有名な「綾鷹」の監修を手掛けていることでも知られています。通販でも比較的手に入りやすく、上林三入と比べると入手の難易度は低めです。 私の好み 私は、三入のほうが好みです。もちろん、春松のお茶もおいしいのですが、初めて師匠に入門したときに飲ませてもらったのが三入のもので、その味が自分の茶道のベースになっているからです。初めて飲んだときのまろやかさと奥深い余韻が、今でも忘れられません。 とはいえ、三入は入手が難しく、普段使いするには手間がかかります。宇治の本店まで出かける必要があるため、日常的には春松で買い求めています。春松の抹茶も品質が高く、入手しやすいので重宝し...

旅茶碗

茶道に欠かせない抹茶碗の中には、「旅茶碗」という種類があります。これは旅先にも持ち運べるよう、小ぶりに作られた抹茶碗のことです。サイズが小さくても、茶道具としての機能性はしっかり備えています。たとえば、茶だまりや高台がきちんと作られており、お点前にも十分使える構造です。 私自身、プライベートでは奈良絵を施した 赤膚焼 の旅茶碗を愛用しています。この茶碗は、コンパクトなサイズ感が特徴で、茶筅を使う際には少し工夫が必要です。茶筅が入りづらい分、力加減を調整しながら点てることで、しっかりとした抹茶を楽しむことができます。また、収納スペースを取らない点も旅茶碗ならではの魅力です。 普段の稽古や茶席では、手指が長いこともあって大ぶりの茶碗を使うことが多いのですが、小ぶりな旅茶碗のかわいらしいフォルムには、また違った愛着を感じます。旅行に持参して特別な時間を演出するのもいいですし、自宅で気軽に使うのもおすすめです。 旅茶碗は、コンパクトさと機能性を兼ね備えた茶道具として、日常の中にちょっとした非日常感を与えてくれる存在です。もし旅茶碗をまだお持ちでない方がいれば、ぜひ一度手に取ってみてください。その小ぶりな形に秘められた奥深さを感じられるはずです。

節分

2月といえば節分。「鬼は外、福は内」と言いながら、鬼に煎り豆を投げつけて邪を払うことが風物詩となっていますね。 幼いころの私は、この鬼が怖すぎて、節分が憂鬱だった記憶があります。それが父親や幼稚園の先生だと分かっていても、鬼の仮面をかぶって襲ってくるふりをされるとギャン泣きしていました。さらに、「豆を投げつける」という行為がどうしても暴力的に感じられて、実力行使ができずに逃げ回るばかり。「豆をあげるから、あっち行って!」と泣きながら豆を差し出していたような子供でした。 大人になってからはさすがに泣くことはありませんが、三つ子の魂百までとはよくいったもの。今でも、鬼は好きで鬼になっているわけじゃないのに、豆を投げつけられてかわいそうだな……と思ってしまいます(笑)。 ちなみに、投げつけられるのは大豆、つまり「偉大な豆」と書くものですが、本来は神様に捧げる神聖なものとして重宝されていました。そのままであれば土に返すと芽が出る可能性があるのですが、あえて煎ることで発芽できないようにしているわけです。このあたりに、なんだか「豆を殺している」ような感覚があり、個人的には少し複雑な気持ちになります。また、「魂」や「鬼籍に入る」という表現に見られるように、鬼という存在は我々の大切な部分を象徴しているのではないかとも思えてきます。そんな鬼を、煎ってしまった豆で退治するという光景が、どうしても私にはしっくりこないのです。 とはいえ、茶道の世界でも節分にちなんで茶会が催され、時節に応じた茶菓子が供されることがあります。鬼の顔をかたどったお菓子や、福豆を模した干菓子など、趣向を凝らしたものが多く、茶席で出されるとつい手を伸ばしてしまいます。 しかし、個人的には節分の際に自分から煎り豆を食べることはほとんどありません。呼ばれた茶席で供されればいただきますが、普段は煮豆や豆大福などをお供に茶を一服するようにしています。甘辛く炊いた煮豆は、なぜか薄茶に合うのですよね。砂糖の甘みと醤油の風味が、お茶のほろ苦さと調和して、心がほっと落ち着く味わいになります。 節分といえば邪気払いの行事ですが、茶道においても、新しい季節を迎えるにあたって心身を清めるという意味では共通するものがあります。だからこそ、形式にとらわれず、自分に合った形でこの行事を楽しみながら、日々の一服を大切にしていきたいものです。